読書百遍

これまでの「読んだ本の内容を覚えていない」という、悲しい読書からの脱却を目指し、「熟読」「再読」「アウトプット」の読書を目指しています。 

平野啓一郎「マチネの終わりに」 過去は変えられる

 平野啓一郎「マチネの終わりに」

過去は変えられる

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

 

主人公の蒔野聡史は世界を股にかけ活躍する、天才クラッシックギタリスト。彼の20周年記念コンサートツアー最終日は、後に語り草になるほどの大成功を収めた。そのコンサート後の楽屋で小峰洋子に出会う。洋子は有名映画監督の娘で、フランス通信社の記者だった。彼女にはリチャードという婚約者がいたが、聡史と洋子は惹かれ合い、やがて洋子は婚約を破棄し、蒔野と結婚することを決意する。しかし目前に蒔野を慕うマネージャーの早苗の噓によって、二人はすれ違い、別れを迎える。蒔野は早苗と結婚、洋子はリチャードと復縁し、別々の人生を送ることになった。また蒔野はあのコンサートの日を境に、ギタリストとして長いスランプに陥っていた。

 

音楽に於ける深みと広がり。長きにわたって幾度となく聴き返されるべき豊富さと、一聴の下に人を虜にするパッとした輝き。人間の精神の最も困難な救済と、せわしない移り気への気安い手招き。魂の解放と日々の慰め。――現代のオブセッションのようなそうした矛盾の両立は、ここ数年、蒔野が苦心して取り組んできた課題だった。

 

まず読者は主人公である蒔野と、作者平野啓一郎氏を重ね合わせずにはいられない。誰もがその才能を認める天才ギタリストである蒔野は、四十歳を間近にして、スランプという初めての挫折を味わう。同じく若くして芥川賞を受賞し、現在の文学界を牽引する平野氏も、今や四十代だ。トップランナーゆえの葛藤はあるだろう。彼ら表現者にとって自己の芸術性の追求とともに、もう一つ共通する重大な問題は、聴き手や読み手との距離の取り方だろう。その点を平野氏は非常に意識した作家だといえる。

 

蒔野のような、生まれ持った才能が、否応なく他人の嫉妬や羨望を搔き立ててしまう人間は、何か意外な親しみやすさを身につけなければ、たちまち孤立してしまうのだろうと、洋子は考えていた。

 

平野啓一郎氏というと、どうしてもはデビュー作「日蝕」による文学的で難解なイメージが強い。私もかつてはそんな印象だった。しかし、いくつも出版されている新書やインタビュー記事を読むと、彼は非常にわかりやすい表現で語り、親しみやすい人物である印象を受ける。この小説「マチネの終わりに」においては、そんな平野氏の気安さと、文学での表現者としての奥深さが見事に同居している。つまり、わかりやすく、凄みがあり、面白い。私は読み始めると、その芳醇な言葉や文章に線を引き、ノートに書き留めずにはいられなかった。それらはあまりにも優雅で、上品だ。言葉と、それによって導かれた音楽がもたらす「静寂」。しかしその「静寂」に浸ってばかりもいられないのが、現代の私たちの生活だ。蒔野と洋子も、社会情勢や、あらゆる「日常の喧噪」によってかき乱されることになる。やさしく流れるようなアルペジオ主体の伴奏と、滑らかな美しい旋律。それらに電子音が混じりだし、複雑なリズムを刻み始める。

やがて恋する二人の男女に転機が訪れた。すると私は言葉を書き留めるよりも、先に先にと、ページをめくるのがもどかしいと感じるほどに、物語は急激にスピード感を増し、大きくうねり始める。

 

蒔野と洋子の恋はあまりにも美しい。しかし結局それは叶うことがなかった。私は二人の恋とは、人々が持つ理想であり、夢ではないか?と考えた。

40歳を過ぎた人間にとっての理想や夢とは何か。

確かに幼い頃の夢を実現した人や、今なお理想を追い続ける人もいるかもしれない。しかし多くの人は、挫折を経験しているに違いない。そのような人々にとっての理想とは、おのずと幼い頃に描いていたものとは異なっているだろう。

小説中、洋子は父親から「《ヴェニスに死す》症候群」だと言われる。その定義は『中高年になって突然、現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出ること』である。

人は長く生きるにしたがって、背負う荷物も多くなる。やがて疲れ果て、時にその全てを投げ出してしまいたくなる衝動に駆られることもあるだろう。ただその先に待つものは必ずしも幸福だとは限らない。蒔野と洋子は悲劇的ともいえる別れの後に現実的な選択をする。恋愛中の二人は絵画的にも思えるが、別々の道を歩み始めた二人は生活感を伴った、私がより身近に感じられるものだ。

 

つまり蒔野と洋子の恋とは、理想や夢にすぎず、実際には存在しないパラレルストーリーととることも可能だ。人は自由に理想を描くことが出来る。実際にいくつもの分岐点があり、もしかするとあったかもしれない、「別の自分の人生」を想像することもあるだろう。しかし私たちが生きることが出来るのは現実のただ一つの人生だ。それは悲観すべきことなのだろうか?

「マチネの終わりに」で繰り返されるのは、「過去は変えられる」という言葉だ。

 

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それほど繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

 

「過去は変えられる」というのは、言われてみれば思いがけない発想だ。過去は固定されたものである、と考えがちだ。私は過去を振り返ることは好きではない。あまり良い思い出として残っているものがないからだ。嫌な「過去」を否定し、「未来」を変えるために行動する。それも確かに前向きな考え方だと言えるだろう。いずれにしても、「過去」というものは、現在の自分を形成する大部分を占めていると人は考える。しかし、もし「過去が変えられる」のならば、現在の自分もおのずと変わってくる。「過去を否定して生きる」のではなく、「過去を肯定して生きる」、それは現在の自分を肯定することにほかならない。そして人生を生きる上での「新しい視点」が持ち込まれるということだ。

 

この小説の登場人物たちは四十代だ。平野氏、そして私も同世代である。社会の「際限のないうるささ」に疲れ、あるいは幻滅している人もいるだろう。そういった私たちの世代が今持つべき理想や夢とは何だろうか?社会とどのように折り合いをつけていくべきなのか?

四十歳というのは人生において折り返し地点といえる。少なくとも四十年は生きてきた。それだけの経験があり、それぞれの「過去」を持っている。確かに良い「過去」ばかりではない。しかしそれに違う角度から光を当てることによって、「過去は変えられる」のだ。するとおのずと現在をも変えてしまう。それはある人にとっては、人生の再生であり、新しいスタートを可能にする。

 

「花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんな風に、過去に向かっても広がっていく。」

 

人は現在を生きているはずだ。しかし人生とは決して一本道ではなく、人は前にも後ろに進むことが出来る。同時にいくつもの並行した道もあるかもしれない。それを知ることによって、現在見える景色も、流れる音楽も変わるだろう。

 

「マチネの終わりに」は現代の喧噪に生きる私たちを癒し、また明日の意欲を掻き立てる。一本のクラッシックギターによって奏でられた音楽は、包み込むような気安さに溢れている。しかしその手招きによって導かれたその先には、時空を超えた、深遠な音楽と文学の世界、そしてそれぞれの人生の広がりへとつながっている。

 

 

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