読書百遍

これまでの「読んだ本の内容を覚えていない」という、悲しい読書からの脱却を目指し、「熟読」「再読」「アウトプット」の読書を目指しています。 

金城一紀「GO」 世界との距離感

イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ大統領の誕生など、世界を揺るがすニュースが続いている。両国内の世論が二分されていることからも、問題が単純ではないことが見て取れる。グローバリゼーションや技術革新によって世界は画一化されようとすると同時に、より複雑に混じり合い多様化していく。総じて現代が抱える問題というのは、混沌とする世界にどう向き合い行動するかであり、それは国家や企業のみならず、それぞれ個人の課題でもある。

 私はそういった世界のニュースを目の当たりにして、ある小説を思い出した。金城一紀氏作「GO」である。

この小説はあくまで、ある少年の個人的な話に過ぎない。しかし彼の人生に待ち受ける困難というものが、あまりに今世界が直面している多くの問題と重なり合う。そして彼の生き方の中には、あらゆる問題解決への示唆があると思うのだ。作者の金城一紀氏はインタビューで「今までに書かれたことがないものを書きたかった」といった趣旨の発言をしている。私は「GO」は、まさしく「今までに書かれたことがない小説」だと思うのだ。

  

GO (角川文庫)

GO (角川文庫)

 

 

 

「無知と無教養と偏見と差別」。在日朝鮮人として日本に生まれ育った主人公の杉原は、生まれながらにして、それらに囲まれて生きてきた。

 「国籍とか民族を根拠に差別する奴は、無知で弱くて可哀想な奴なんだ。だから、俺たちが色々なことを知って、強くなって、そいつらを許してやればいいんだよ。」

 そう言う彼は文字通り強くなろうとする。元プロボクサーの父にボクシングを教わった彼の喧嘩の戦績は二十三勝無敗。中学時代は「クルパー」というあだ名を付けられていたが、3年になると日本の高校を受験することを決意し、猛勉強を開始する。「無知と偏見」から身を守るために、本を読み理論武装した。高校に合格した彼に、やがて桜井という彼女ができる。二人が夢中になったことは「カッコいいものを探すこと」。本屋やCDショップやレンタルビデオ店で「何か」を感じ取ったものを直感で選び、お互いに薦めるというものだ。しかし杉原は桜井に自分が「在日韓国人」であることを打ち明けないままでいた。やがて二人がついに結ばれようというとき、杉原はそれを初めて告白するのだ。

 

この小説の一番の特徴は、ユーモアをふんだんに含んだ軽やかな文体だ。その文体から私が持っていた「在日」という言葉が持つ、「安易には触れてはならないもの」という負のイメージが覆される。そしてそのイメージこそが、「無知と無教養と偏見と差別」そのものであることを知らされるのだ。

この物語は作者である金城一紀氏の自伝的小説のようであるが、この軽やかな文体から金城氏が、世界とどう関わろうかとしているかがうかがえる。私が「GO」を読んで、最も考えさせられたのが「他者との距離感」の重要性だ。

 

主人公杉原の人生は困難の連続である。「無知と偏見」によって差別を受け、日本の高校へ進学しようとすれば「裏切者」というレッテルを貼られる。民族学校というのはいわば壁で守られた場所であり、そこにいる限り安全なように思えるが、壁の外を知ることは出来ない。彼は壁の外へ出るという選択をした。父親の勧めに従い朝鮮籍から韓国籍へと変え、日本の高校へ進学する。友人が日本人高校生に刺され命を落とすという事件が起こるが、復讐しようと持ち掛ける民族学校の仲間たちには同調しなかった。彼は他者に依存することなく、彼独自の生き方をしようとしたのだ。では何が彼をそうさせたのか。おそらくその要因として彼の肉体的な強さ、知識、そして多様な価値観を知っていたことがあるあろう。彼は彼女である桜井とともに、様々な芸術に触れる。映画、音楽、絵画、小説。困難に陥ったときに彼がとった行動は、内にこもることではなく、自分の外側に広がる世界を知ろうとしたことだ。それによって彼はおそらく客観的に物事を捉えることが出来るようになったのではないか。彼にも当然憎しみや苦しみはある。強くなろうとしたが、結局なにか問題が解決したわけではない。しかしそれに過度に執着することなく、前に進もうとした。

 

杉原の生き方には、現代を生き抜くヒントがある。現代は様々な問題が複雑に絡み合い、一つの答えを導き出すことは困難だ。しかし物事は前に進めなければならない。そこで必要になるのが「他者との距離感」ではないだろうか。多様な価値観を持った人々、それらすべてを理解しようとするのは無理がある。経済格差、宗教や文化の違い、人種、国籍、性別、世代、利害関係、歴史認識、思想の違いなど数え上げればきりがない。いや、本来すべての人が違うものだと考えるべきなのかもしれない。そのような世界でどのように他者と関わるかは、人間にとって究極で最も切実な問題だ。

 

私はここ数か月小説「GO」についての感想を書き続けていた。この小説は驚くほど現代社会の問題との一致があり、とりとめがなくなってしまった。言及すべきことが多すぎるのだ。そしてその一つ一つが重大で、答えの出るようなものではない。「GO」を語ろうとするならば、世界の全ての問題を語ることになってしまう。そうやって投げ出しかけたときにようやく気が付いたのだ。世界とは、そして人生とはそういうものではないか。あらゆる複雑な問題が立ちはだかり、困難の連続だ。しかし生きていかなければならない。そのとき初めて小説のタイトル「GO」の意味がわかった。たとえどんな壁が立ちはだかろうと前進しなければならない。これこそ世界の進む道であり、生きる意味だろう。

 

そしてもう一つ言及しておきたいことがある。「GO」は父と子の物語でもある点だ。父親は息子にボクシングと人生の厳しさを教えた。息子のために自ら朝鮮籍から韓国籍に変えた。それは多くの犠牲を伴うにもかかわらず、息子の「足枷」を一つでも外そうとしたものだった。自分を捨て息子に希望を託そうとしたと言えるだろう。親が子を思う気持ちだと言ってしまえばそれまでだが、ここにも大きな手がかりがあると思うのだ。今も世界に横たわる多くの問題、その中の幾つかは解決が非常に困難なものもあるだろう。もちろん現在生きている私たちは当事者であり、早い解決を望むのは当然だが、簡単には物事は進まない。そのようなとき、問題解決を次の世代に託す、という選択肢もあるのではないか。いわゆる問題の棚上げということだ。相手と対立したときに、殊更それを強調して憎しみ合うよりも、意見の合わない部分は一旦脇において、一致できる部分だけでも認め合う。それによって少しでも前に進むことが可能だろう。確かにそれでは根本的な問題解決にならないという意見もあるだろう。しかしたとえば今生きている私たちの時代から距離を置いてみる。次の世代を見据えて物事を考える。もっと言えば、自分は連綿と続く人類の歴史を繋ぐ一つのピースだと考える。たとえ問題の解決に至らずとも、次の世代に「たすき」を繋ぐことが出来るならば、それは意味があることだろう。

 

「GO」が私につきつけてきたものは、あまりにも大きい。「無知と無教養と偏見と差別」はその一つだ。自分のまだ知らない世界、多様な価値観を持つ世界を知ろうとすること、あるいは自分が何を知らないかを知ることは必要だろう。しかしその全てに向き合おうとするのは不可能なことでもある。そうであれば人間は「無知と無教養と偏見と差別」からは逃れられない。それを自らが受け止めた上で、他者と関わっていくこと重要だと考える。

世界は複雑だ。人生は困難だ。しかし前に進まなければならない。結果として上手くいかないとしても、きっと次の世代の誰かが「たすき」を受け取ってくれるだろう。私たちが出来ること、それは過去から未来へと繋ぐ今を生きること、すなわち「GO」だ。

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