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読書百遍

これまでの「読んだ本の内容を覚えていない」という、悲しい読書からの脱却を目指し、「熟読」「再読」「アウトプット」の読書を目指しています。 

百田尚樹「永遠の0」

百田尚樹永遠の0」(講談社文庫)

   

今年は太平洋戦争開戦から75年である。

戦争について知ること、その大切さは自覚しているつもりだが、これまでの私はそこから逃げてきたように思う。私の両親は80代で戦争を記憶している最後の世代だ。私が幼少の頃、父は戦争の話を私にしたが、私はそういった話を聞くのが嫌だった。当時は戦争の話というものが、何か気味の悪いもの、格好の悪いものと感じていた。その後、父が戦争について語ることはなくなったが、私の中にどこか後ろめたい気持ちがずっと残っていた。そして歳を重ねるにつれ、戦争について学ぶことこそ、自分に最も必要なのではないかという思いが大きくなってきた。

そういった私にとって、また戦争を知らないすべての人にとって、百田尚樹永遠の0」は戦争について知ること、考えることの大きな手掛かりとなる小説だ。

 

永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)

 

 

主人公は26歳の健太郎だ。祖父は宮部久蔵。零戦パイロットとして戦争を戦い、終戦間近に特攻で亡くなった。宮部は凄腕を持ったパイロットであったが、周りの兵士たちからは臆病者と呼ばれた。「生きて家族の元に帰ること」を願った彼だが、なぜ自ら特攻で命を落としたのだろうか。主人公健太郎が姉と共に祖父の生涯を調べ、彼を知る元兵士たちに話を聞くという形で小説が進んでいく。率直な疑問を元兵士たちにぶつける場面もあり、戦争を知らない私たちが当時を知るにはうってつけである。

 

この作品でまず思い知らされるのは、戦時中いかに兵士たちの命が軽んじられたのかということだ。元兵士たちの話では当時の大本営や軍令部の作戦が常に場当たり的なもので、特攻はその最たるものであったと語られる。無謀な作戦が繰り返されるなか、上層部や高級士官のミスは不問にされ、一般兵士たちの命はあたかも将棋の駒のように粗末に扱われた。また、兵士たちもまさしく命懸けで、死を覚悟して兵役についていた。今では生命の尊さについて当たり前のように語られるが、当時は生命というものが今よりも軽いものとして扱われていたのだ。

 

そんな状況の中、健太郎の祖父、宮部久蔵は臆病者と呼ばれ、「命が惜しい」、「生きて家族のもとに帰りたい」と願った。彼はおそらくフィクションとしてつくり出された人物であろう。当時の軍人は命が惜しいなどと口にすることは許されなかった。しかし誰もが命は惜しく、生きて家族や愛する人の元へ帰りたかっただろうというのは当然のことだろう。その当然のことすら、かつては言葉にできなかったのだ。

 

作中登場する高山という新聞記者の話は特に興味深かった。彼は特攻隊と現代のテロリストには共通点があり、特攻隊に志願した人々は狂信的な愛国主義者であったと語る。彼らの遺書や残された手紙からは宗教的な殉教精神や一種のヒロイズムが読み取れるという。ともすれば、私もそのような意見を聞いて受け入れてしまいそうだが、それを聞いた元特攻隊員は激怒したのだ。遺書は特攻隊員の本心ではないという。当時は手紙にも検閲があり、軍部への批判や弱々しいことを書くことはできなかった。さらに残されることになる肉親や愛する者にそのような思いをさらすことは、彼らをさらに苦しめることになるからだ。そういった背景を無視して、彼らが死を怖れなかったというのはあまりにも安直だというのだ。

 

私はここに今私たちが考えるべきポイントがあるのではないのかと思う。戦争を知ること、それには事実を知らなければならない。しかしそれだけでは足りない。歴史の中の行間を読むことが必要なのだろう。

戦争について現代の視点からだけで語るならば、あまりに精度を欠いたものになりかねない。平和な暮らしを享受している現代の日本人から当時を理解するのはたやすいことではなく、誤った認識や解釈では日本の将来を間違った方向に導くのではないかという、作者百田尚樹氏の問題の提起のように思えてならない。そういった現代の流れは、現実を見つめることなく無謀な作戦を繰り返した、かつての大本営や軍令部を連想させるものである。

 

小説「永遠の0」ではクライマックスで宮部久蔵について意外な事実が明かされ、私の心は揺さぶられるように震えた。それは人間が持つ愛だ。それはとてつもなく遠大で、またごく身近にあるものだ。誰にでもそれぞれの人生があり、将来があり、夢がある。家族があり、愛する人がいる。そしてアメリカやアジアの多くの国々でも多くの犠牲が払われたことも忘れてはならない。彼らにも人生があり、守るべきものがあったのだ。

 

確かに平和や愛を唱えるだけでは戦争はなくならないかもしれない。しかし、かつて日本のために命を懸けて戦った人たちがいたこと、また祖国のために戦った外国の人々、あるいは今も世界の各地で戦争をしている国々の人々について、思いを馳せ自分のこととして考えてみることは決して無駄ではないだろう。

 

戦争を学ぶことは難しい。日本からの視点だけでは語ることは出来ず、不安定な国際情勢は未来を一層不透明にさせている。大局的な観点から考えることが必要な一方、戦争が人々から何を奪い去るのかは忘れてはならない。

どんな惨劇も時間と共に薄れ、やがて忘れ去られていくものだろう。戦争を体験した方々もいつかいなくなる時は来る。しかし彼らの犠牲の上に今の私たちの今の平和な暮らしがある。それを享受している以上、私たちはそれを知る方々から次の世代へとつないでいく義務があるだろう。

 

永遠の0」は戦争を知るための一歩である。その先に自ら学ばなければならないことは多い。私が幼いころ嫌だった、父の戦争の話。次に父に会うときは聞いてみようと思う。

 

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