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読書百遍

これまでの「読んだ本の内容を覚えていない」という、悲しい読書からの脱却を目指し、「熟読」「再読」「アウトプット」の読書を目指しています。 

中村文則「何もかも憂鬱な夜に」(再読)

中村文則「何もかも憂鬱な夜に」(再読)

小説を宗教の世界観で読む

 

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

 

 

中村文則「何もかも憂鬱な夜に」は、重大犯罪や死刑制度の是非など、生と死にまつわる重いテーマを扱った作品である。刑務官として収容者と向き合う人たちの姿や犯罪者の心理など、人間の内の苦悩や混沌が見事に描かれるが、冒頭の主人公の古い記憶が何を意味するのか最後まで明らかにされないことなど、わかりにくさも伴う。それと同時に、広く解釈できる余地があり、深く考えることのできる小説だ。私なりに想像を巡らせて読み、感想を書いた。

しかし後日、偶然読んだ仏教の入門書に「何もかも憂鬱な夜に」の理解のための大きなヒントがあった。

 

仏教「超」入門』(白取春彦)は、仏教を知らない人にも理解できるように書かれた、まさに「超」入門書である。

 

仏教「超」入門 (PHP文庫)

仏教「超」入門 (PHP文庫)

 

 

著者の白取春彦氏は、仏教をひと言でいうならば、「縁起」であると断言する。

「縁起」とは、関係性のことであり、「この世のあらゆるものが、関係性においてのみその存在が確かめられている」としている。

この世の中のいっさいがあなたという存在を支えている。同時にまた、あなた自身が他の人や物の存在を支えているのである(『仏教「超」入門』)

 

私はここで、小説「何もかも憂鬱な夜に」の施設長の言葉を思い出した。

施設長は生物の起源であるアメーバと主人公の命は一本の線でつながっていると言い、こう続ける。

「これは、凄まじい奇跡だ。アメーバとお前を繋ぐ何億年の線、その間には、無数の生き物と人間がいる。どこかでその線が途切れていたら、何かでその連続が切れていたら、今のお前はいない。いいか、よく聞け」

 そういうと、小さく息を吸った。

「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか?全て、お前だけのためだけにあった、と考えていい」(「何もかも憂鬱な夜に」) 

これは、まさしく仏教における「縁起」である。自分と周囲との関係性の中でこそ自己は存在するという「縁起」においては、善悪すらもその関係性のなかに含まれる。人間の存在への、これ以上の肯定はない。そしてこの小説を仏教の世界観から読み直すと、新しい理解ができる。

 

この小説の舞台である刑務所や拘置所、あるいは養護施設にたずさわる人たちは、罪を犯した人や極めて困難な状況に置かれた人たちと常に向きあっている。そのような人を導くよりどころとするのはおそらく宗教であるのだろう。この小説がそういった現場の現実を描いたものであるならば、宗教の視点が持ち込まれるのは自然ともいえる。

しかし小説全体を通して、仏教の考え方が示されていると私は感じる。テーマともいえる生と死、生きることの意味、自殺、死刑制度、人間の苦悩、さらには小説の節目に出てくる施設長の言葉は実に仏教的で、むしろ仏教の世界観を表現するためにこの小説が書かれたと解釈することもできる。

この場合、この小説のテーマについて読者に深く考えさせることを重視した、いわばテキストのようなものだと言える。そう考えたほうがこの作品全体をすっきり理解できるのだ。小説の難解な部分も、読者の自由な解釈の余地を残すためにつくられた意図的なものであろう。また作者の問題提起でもあるだろう。

現代にたびたび起こる重大犯罪に対して我々はどう考えるべきなのか。事件の背景や犯人の動機、生まれ育った環境、更生、また社会はどう受け止めるべきであるか、または死刑制度の是非を考えるとき、この小説は有効なテキストになる。

ストーリーを追うばかりでなく、読者自身で考えなければならない読書。そうなると読書の意味合いも変わってくる。作者が書いた作品を受け入れるだけの読書から、こちらから主体的にかかわっていかなければならない。読者がどれだけ考えるかによって、作品の価値が変わる。つまりその小説は作者だけが作り上げたものではなく、読者も一緒に関わって初めて完成するのだ。作者と読者の共同作品ともいえる。

 

もう一つ興味深い点があった。

この小説を読んだときに感じた疑問が、登場人物がこれほどまでに苦しんでいるのかということである。これも「人生とは苦しみである」とする仏教の考えとも一致する。登場人物たちは苦しみの根源がわからないために悶々として、苦しみが増幅される。特に思春期にはこんな苦しみを経験しているのは自分だけで、自分は異常なのではないかと思うものだ。

ここで興味深いのが、仏教では人間の苦しみや欲望を類別していることである。いわゆる「四苦八苦」を知ることは、自分の中に持つ苦しみや煩悩の原因を認識し、客観的に見ることができるという点で非常に有効だ。これらは人間の苦しみを普遍化したもので、人類の叡智であるならばそこから学ばないという手はない。自分が持つ苦しみを自分だけなく、人間ならば誰もが持つものだと知ることで、その苦しみから逃れられやすいのではないだろうか。

そして同じことを、小説を読むことによっても得られると言える。「何もかも憂鬱な夜に」でも優れた芸術作品に触れることで、救いを得られるとしている。他者を知り、自分の世界を広げることだ。人間は悩みの中で自分は異常だと思い込んでしまうことが多々あると思う。そこから、犯罪に走ったり、自殺を考えたりする傾向はあるだろう。そんな時、芸術作品に触れること、宗教や歴史を知ること、本を読み様々な物語を知るなどして自分の枠を広げることが必要だろう。

 

私は「何もかも憂鬱な夜に」を読み終えた直後に、偶然『仏教「超」入門』を読み、初めて小説と仏教の接点に気が付いた。仏教について詳しい人なら「何もかも憂鬱な夜に」の仏教の世界観を一読して読み取れるだろう。

著者の中村文則氏は他の作品「掏摸」のあとがきで、「掏摸」は「旧約聖書」が影響しているとも記している。「何もかも憂鬱な夜に」においては仏教を意識したのだろう。

そもそも人間を語る上において宗教は切り離せないものかもしれないが、宗教とのかかわりが希薄になっている今、その視点で小説を読むことはなおさら重要だろう。ただあまりそこにこだわり過ぎても、自由な読書の妨げになる可能性もあるだろう。私にとっては小説を読むとき、また人生を考えるための新たな視点を持つことができた重要な2冊になると思う。

 

mayaboupan.hatenadiary.jp

  

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