読書百遍

これまでの「読んだ本の内容を覚えていない」という、悲しい読書からの脱却を目指し、「熟読」「再読」「アウトプット」の読書を目指しています。 

又吉直樹「火花」

又吉直樹「火花」(文藝春秋

 

タイトルを「花火」だと勘違いする人は多いだろう。冒頭から花火大会の場面だ。群衆を歓喜させる色とりどりの鮮やかな光と爆音。片や誰も立ち止まらない沿道に置かれたビールケースの上で漫才をする若手漫才師。「花火」はまだ何物でもない若者らが夢見る「成功」の象徴であろうか。また「花火」の美しさは一瞬であり、はかなさも魅力である。芸人の世界は栄枯必衰、その一瞬の輝きのために、もがき這い上がろうとする彼らにしかない輝きがあるのか。

しかし本文中に「火花」という言葉が一度だけ出てくる。

 

自然に沸き起った歓声が終るのを待たず、今度は巨大な柳のような花火が暗闇に垂れ、細かい無数の火花が捻じれながら夜を灯し海に落ちて行くと、一際大きな歓声が上がった。

 

「花火」は無数の「火花」から構成される。華々しいスポットライトを浴びる者たちの陰で敗れ去った者たち。その散って消えてしまう「火花」こそが、成功を夢見る若者たちか?

などと、色々考えてしまう時点で、おそらく作者の術中にはまってしまっているのだろう。しかし、あれこれ想像をめぐらすのも読書の楽しみの一つである。

 

 小説「火花」は現役のお笑い芸人、又吉直樹氏がかいた芥川賞受賞作、大ベストセラー作品である。読書家で知られる又吉氏の地に足の着いた筆致と、芸人ピース又吉としてのエンターテインメント性が発揮された読み応え十分の小説だ。

お笑い芸人の世界を舞台として描かれた、若手漫才師と、彼が師匠とあがめる先輩芸人との師弟物語である。

 

リスクを顧みず、いつの日かの成功を夢見て挑み続ける若者たち。一見無謀であるかのように思える生き方をする彼らの姿は眩しい。そして主人公「徳永」が持つ世間からの疎外感、自分より早く売れていく者に対しての嫉妬や焦りは、私の胸に自分の物のようにじりじりと胸に刺さる。ただ私が「徳永」よりずっと年を取っていることを考えると、いまだにそういった感情を持ち合わせていることは私を一層不安にさせるのだが。

 

また青春小説としての魅力に加えて、お笑い論が展開されているところは、誰もが興味を持ち見逃せない点だろう。ここにお笑い芸人ピース又吉としての企てが透けて見えそうだ。

 

「笑われたらあかん、笑わさなあかん。って凄く格好良い言葉やけど、あれ楽屋から洩れたらあかん言葉やったな」

 

と、登場人物に言わせつつも、芸人の内部機密を垂れ流しているのだから。真剣に議論する芸人たちの姿、胸の内をあえてさらすのは、世間に対して芸人への理解を深めたい、あるいは世間のお笑いのレベル向上という目論見もあるのか。

 

また先輩芸人への挑戦状という意味合いもあるだろう。

「火花」に登場する先輩芸人「神谷」は典型的な芸人像として描かれている。しかし作者、又吉氏にとっては「かつての古い」理想像なのではないか?

先達者たちへのリスペクトは見せつつ、それに代わる新しい価値観の構築をもくろむのかもしれない。

ただ、 彼が目指しているものは「新しいお笑い」だけでなく(もちろん追求するだろうが)、「新しい表現の形」を模索しているのではないか?と想像してしまう。従来の型から脱却した、新しい提示が求められるのは時代の要請でもあるかもしれない。小説終盤にジェンダー問題について言及していることからも、それがうかがえる。「面白ければ何でもあり」という古い考えへの警鐘であろう。かつては許されたことでも、今では幅広い配慮が必要で、マイノリティーの視点も持たねばならない。社会環境の移り変わりによって、芸人たちも変化を余儀なくされているのだろう。

 

小説に話を戻すと、「火花」とは芸人たちの葛藤、挫折であろう。

彼らは本気だった。熱を持ち、くすぶり続け、ある者は輝きを見せ、ある者は破裂した。作者は自らも含め、共に戦った芸人たちの姿を描ききった。

「花火」は連帯の証だ。誰か一人の成功ではない。花火は一人で打ち上げられるものではなく、散っていった無数の「火花」によって光輝いた。戦友たち、観客を含め同時代にかかわった人たちへの感謝だろう。

 

この小説は芸人の世界を去った者たちへの鎮魂歌であり、再生の詩である。

新しい一歩を踏み出すためは欠かせない総括だ。

やがて彼らによって次の花火が打ち上げられるだろう。

それは、いまだかつて見たことがないような色彩を放っているかもしれない。

  

火花

火花

 

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