読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

読書百遍

これまでの「読んだ本の内容を覚えていない」という、悲しい読書からの脱却を目指し、「熟読」「再読」「アウトプット」の読書を目指しています。 

中村文則「掏摸」

中村文則「掏摸」(河出文庫

 

子供の頃にテレビで「黄金の指」という映画を観た。スリグループによる鮮やかな犯罪の手口とその内幕を描いた映画だった。おとりの人物がカモフラージュし、主人公が巧みに財布を抜き取ると、すかさず運び役に手渡す。万が一気付かれても、証拠が残らないようにするためだ。スリは数人でチームを組んで実行され、流れるような見事なチームワークを見せる。まるで自分が犯罪に関わっているかのようなスリルと興奮を味わえた作品で、後にもう一度観たくなりビデオやDVDをあちこち探したが、残念ながら見つからなかった。どうやらDVD化されていないようだ。

 

しかし中村文則の小説「掏摸」はそのときの興奮を私によみがえらせた。

スリを実行するときの描写はスリリングだ。防犯カメラの位置を把握する。周りの人間の視界を防ぐ。指先に集中し、呼吸を止め実行する。読者も主人公と同様、息をのんでしまう。その技術には犯罪でありながら、美を感じてしまう。

 

この小説の主人公はスリ師だ。彼は東京でスリをしていたが、あるとき闇社会に生きる木崎という男の強盗計画を手伝い、報酬として大金を受け取るが、東京から離れるように忠告される。一度は東京を離れるが、やがて戻り木崎と再会すると、不可能だと思われる三つの仕事を言い渡される。それは失敗すれば彼は殺され、逃げれば知人の女とその子供を殺すという過酷なものだ。彼の人生を支配しようとする木崎に抗いながらも、三つの仕事を実行しようとする主人公、そして母親に万引きをさせられる子供との交流が描かれる。

 

闇社会の男、木崎は「他人の人生を支配すること」を楽しむという狂気を感じさせる男だ。主人公は木崎に支配され、生殺与奪の権を握られてしまう。強調されるのは人間の「運命」。犯罪にも格差があり、闇社会の確固たるヒエラルキーが存在する。主人公ら身寄りのない人間は、殺されても身元が判明しづらく、いいように使われる。

 

孤独であるがゆえ殺され、誰かと繋がろうとすれば存在価値がなくなり殺される。これこそ逃れられない運命だ。しかし主人公は母親に万引きをさせられる子供と関わろうとする。子供もまた過酷な境遇で生きることを運命づけられている。子供をそこから救い出すことが主人公の自分「自分の運命」への抵抗だろう。運命に縛られた世界から逃れるには、誰かと繋がることで可能性を見出せる。もし誰とも繋がれないもっと過酷な状況ならば・・・。

 

小説の中に現れるのは「塔」だ。主人公が小さい頃遠くに見えていた「塔」。やがて成長し姿を消すが、再び現れる。「塔」とは神だろうか?「塔」は「人間の運命」よりさらに高い位置から見下ろしているようだ。ともかく主人公は「塔」に見られていた。そのような自分の存在が認められる「何か」があれば本当の意味での孤独ではない。不確かなものではあるがわずかな可能性は残される。

 

描かれるのは悪に支配された世界。しかしそれが現実の世界だとも言えるだろう。果たして世界に善は存在し得るのか?木崎は「お前がもし悪に染まりたいなら、絶対に善を忘れないことだ。」というが、逆のことも言えるだろう。善を知るには、悪を忘れてはならない。人間を知るためには悪を知らなければならない。木崎は悪を体現した男だ。それが本来の人間の姿だろうか。私には理解しがたいところがあるが、おそらく私が人間というものを表層しか理解していないのかもしれない。中村文則の小説は重い。重量級だ。読者に世界を理解しようとすること、この世界で生きていくことを強いてくる。

小説を読み、自分の中にあるものを読まなければならない。

 

ところで現実にこのようなスリ師は存在するのだろうか?小説や映画の中での話だろうと考えている人も、すでにスられており、気づいていないだけかもしれない。財布の中身だけを抜き取る「中抜き」という技もあるらしい。

 

掏摸 (河出文庫)

掏摸 (河出文庫)

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村 


書評・レビュー ブログランキングへ 

はじめに

 ~ABOUT ME~

f:id:mayaboupan:20160823174234j:plain

 

今さらながら、自己紹介と意気込みを書きたいと思います。

40代男性、

家族は妻と娘二人です。

 

子供のころから本を読むことは好きでしたが、勉強嫌いで国語の教科書に載っていたで覚えているのは「大造じいさんとガン」のみです。「勉強したら負け」と信じていた愚かな少年時代を経て気ままに生きていましたが、20代後半に突然「このままずっとアホでいいのか?」という疑問が立ち上がり、20代後半からは読書に明け暮れました。読めば読むほど知らないことは増えるばかり。読んでも読んでも追いつかない。読書の動機が劣等感から生まれているために、いつしか「本を読むこと」が目的になっていました。その結果、「本を読んだはいいが、内容を全く覚えていない」ということが起こります。これは悲しい。誰かに「この本面白かったよ」と伝えたくても、「どんな内容だった?」と聞かれたときに答えられないのです。せめて大まかなあらすじくらいは言えなければ、その本を読んだとは言えません。そんな悲しい読書からの脱却が必要です。私も40代にさしかかり、人生は有限だと感じるようになりました。読書の時間をつくることも難しい毎日です。そんなわずかな時間だからこそ大切にしたいと思います。大量の書籍を読むよりも、一冊の本を繰り返し読み、新しい発見をする。そして本と作者に対してリスペクトの気持ちを持って読書することが大切だと考えます。私が今この世界でかろうじてバランスを保っていられるのは読書のおかげだと感謝しているからです。とは言っても書店に行っては新しい本を買い込んで、机は本が山積みになっていますが。

 

読書ブログをはじめて発見したことは、考えれれば考えるほど、何かしら新しい発想が生まれるということです。他の人からすれば大したアイデアではないかもしれませんが、これまで自分の中になかったものが、考え続けることによって、あるいは時間をおくことによって立ち上がるというのは、とても面白いことです。逆に言えば、考えることをやめてしまうということは、湧き上がってくるかもしれないそのアイデアを切り捨てているともいえます。そう考えると非常にもったいないことで、読書を楽しむためには繰り返し読すことが欠かせないと、近頃は実感しています。

 

これまで文章など、ろくに書いたことがなく、とても人様に読んでいただけるようなものでありませんが、100冊の本を読んで感想を書けば、少しは文章も上達するのではと考えています。100冊を超えたとき、はじめの頃に書いた記事を自分で読んで、「恥ずかしくて削除したい」と思えれば、少しは上達しているかもしれません。「なかなかうまく書けているな」などと思うのならば、それは成長していないということでしょう。とにかく続けることに意味がありそうです。

 

趣味はマラソンです。読書とマラソンの両立は難しい。本を読みながら走れれば解決するのですが、いまだその域には達していません。

マラソンをはじめた動機はもちろんこの本です。

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

 本を読むこと、走ることが私の生命の源です。

中村文則「何もかも憂鬱な夜に」(再読)

中村文則「何もかも憂鬱な夜に」(再読)

小説を宗教の世界観で読む

 

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

 

 

中村文則「何もかも憂鬱な夜に」は、重大犯罪や死刑制度の是非など、生と死にまつわる重いテーマを扱った作品である。刑務官として収容者と向き合う人たちの姿や犯罪者の心理など、人間の内の苦悩や混沌が見事に描かれるが、冒頭の主人公の古い記憶が何を意味するのか最後まで明らかにされないことなど、わかりにくさも伴う。それと同時に、広く解釈できる余地があり、深く考えることのできる小説だ。私なりに想像を巡らせて読み、感想を書いた。

しかし後日、偶然読んだ仏教の入門書に「何もかも憂鬱な夜に」の理解のための大きなヒントがあった。

 

仏教「超」入門』(白取春彦)は、仏教を知らない人にも理解できるように書かれた、まさに「超」入門書である。

 

仏教「超」入門 (PHP文庫)

仏教「超」入門 (PHP文庫)

 

 

著者の白取春彦氏は、仏教をひと言でいうならば、「縁起」であると断言する。

「縁起」とは、関係性のことであり、「この世のあらゆるものが、関係性においてのみその存在が確かめられている」としている。

この世の中のいっさいがあなたという存在を支えている。同時にまた、あなた自身が他の人や物の存在を支えているのである(『仏教「超」入門』)

 

私はここで、小説「何もかも憂鬱な夜に」の施設長の言葉を思い出した。

施設長は生物の起源であるアメーバと主人公の命は一本の線でつながっていると言い、こう続ける。

「これは、凄まじい奇跡だ。アメーバとお前を繋ぐ何億年の線、その間には、無数の生き物と人間がいる。どこかでその線が途切れていたら、何かでその連続が切れていたら、今のお前はいない。いいか、よく聞け」

 そういうと、小さく息を吸った。

「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか?全て、お前だけのためだけにあった、と考えていい」(「何もかも憂鬱な夜に」) 

これは、まさしく仏教における「縁起」である。自分と周囲との関係性の中でこそ自己は存在するという「縁起」においては、善悪すらもその関係性のなかに含まれる。人間の存在への、これ以上の肯定はない。そしてこの小説を仏教の世界観から読み直すと、新しい理解ができる。

 

この小説の舞台である刑務所や拘置所、あるいは養護施設にたずさわる人たちは、罪を犯した人や極めて困難な状況に置かれた人たちと常に向きあっている。そのような人を導くよりどころとするのはおそらく宗教であるのだろう。この小説がそういった現場の現実を描いたものであるならば、宗教の視点が持ち込まれるのは自然ともいえる。

しかし小説全体を通して、仏教の考え方が示されていると私は感じる。テーマともいえる生と死、生きることの意味、自殺、死刑制度、人間の苦悩、さらには小説の節目に出てくる施設長の言葉は実に仏教的で、むしろ仏教の世界観を表現するためにこの小説が書かれたと解釈することもできる。

この場合、この小説のテーマについて読者に深く考えさせることを重視した、いわばテキストのようなものだと言える。そう考えたほうがこの作品全体をすっきり理解できるのだ。小説の難解な部分も、読者の自由な解釈の余地を残すためにつくられた意図的なものであろう。また作者の問題提起でもあるだろう。

現代にたびたび起こる重大犯罪に対して我々はどう考えるべきなのか。事件の背景や犯人の動機、生まれ育った環境、更生、また社会はどう受け止めるべきであるか、または死刑制度の是非を考えるとき、この小説は有効なテキストになる。

ストーリーを追うばかりでなく、読者自身で考えなければならない読書。そうなると読書の意味合いも変わってくる。作者が書いた作品を受け入れるだけの読書から、こちらから主体的にかかわっていかなければならない。読者がどれだけ考えるかによって、作品の価値が変わる。つまりその小説は作者だけが作り上げたものではなく、読者も一緒に関わって初めて完成するのだ。作者と読者の共同作品ともいえる。

 

もう一つ興味深い点があった。

この小説を読んだときに感じた疑問が、登場人物がこれほどまでに苦しんでいるのかということである。これも「人生とは苦しみである」とする仏教の考えとも一致する。登場人物たちは苦しみの根源がわからないために悶々として、苦しみが増幅される。特に思春期にはこんな苦しみを経験しているのは自分だけで、自分は異常なのではないかと思うものだ。

ここで興味深いのが、仏教では人間の苦しみや欲望を類別していることである。いわゆる「四苦八苦」を知ることは、自分の中に持つ苦しみや煩悩の原因を認識し、客観的に見ることができるという点で非常に有効だ。これらは人間の苦しみを普遍化したもので、人類の叡智であるならばそこから学ばないという手はない。自分が持つ苦しみを自分だけなく、人間ならば誰もが持つものだと知ることで、その苦しみから逃れられやすいのではないだろうか。

そして同じことを、小説を読むことによっても得られると言える。「何もかも憂鬱な夜に」でも優れた芸術作品に触れることで、救いを得られるとしている。他者を知り、自分の世界を広げることだ。人間は悩みの中で自分は異常だと思い込んでしまうことが多々あると思う。そこから、犯罪に走ったり、自殺を考えたりする傾向はあるだろう。そんな時、芸術作品に触れること、宗教や歴史を知ること、本を読み様々な物語を知るなどして自分の枠を広げることが必要だろう。

 

私は「何もかも憂鬱な夜に」を読み終えた直後に、偶然『仏教「超」入門』を読み、初めて小説と仏教の接点に気が付いた。仏教について詳しい人なら「何もかも憂鬱な夜に」の仏教の世界観を一読して読み取れるだろう。

著者の中村文則氏は他の作品「掏摸」のあとがきで、「掏摸」は「旧約聖書」が影響しているとも記している。「何もかも憂鬱な夜に」においては仏教を意識したのだろう。

そもそも人間を語る上において宗教は切り離せないものかもしれないが、宗教とのかかわりが希薄になっている今、その視点で小説を読むことはなおさら重要だろう。ただあまりそこにこだわり過ぎても、自由な読書の妨げになる可能性もあるだろう。私にとっては小説を読むとき、また人生を考えるための新たな視点を持つことができた重要な2冊になると思う。

 

mayaboupan.hatenadiary.jp

  

mayaboupan.hatenadiary.jp

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村 


書評・レビュー ブログランキングへ 

 

白取春彦『仏教「超」入門』

仏教「超」入門』白取春彦 「縁起を知り、空を知る」

  

仏教「超」入門』には仏教のエッセンスが実に明確に書かれている。そして現代の日本の仏教の問題点、日本人の仏教に対する理解の誤りを指摘していて、入門書としては最適だと思われる。

 

悟りとは何か?

「悟りとはブッダの説いた仏教的真理を理解し、身につけること」

 では仏教的真理とは何か?

「縁起を知り、空を知る」

 すなわち、

「現実を大切にする」

 

「縁起を知り、空を知る」ことを理解し、煩悩から自由になる。

仏教では「人生とは苦しみである」として、世界は自分の思い通りにはならないということを知ることからはじまる。そして、私たちの心に苦しみをもたらす原因を知り、それにとらわれずに生きる。それは過去だけでなく未来についても思い悩まないこと、徹底して現在を生きることだ。まずは「縁起」から見てみたい。

 

「縁起」とは、関係性のことであり、「この世のあらゆるものが、関係性においてのみその存在が確かめられている」としている。

 

この世の中のいっさいがあなたという存在を支えている。同時にまた、あなた自身が他の人や物の存在を支えているのである

 

この世のあらゆることは縁の中での出来事であり、自分一人では成り立たない。結局すべてがいただきものだと知ることによって、湧き上がってくるものは感謝の気持ちである。同時に、同時に自分自身は他の人や物の存在を支えているのであるから、自分の生き方、命を大切にしなければならないのだ。

 

この考え方では現状に対する不満を、縁起のせいにすることができる。悪い縁起を断ち、良い縁起をつくればいい。つまり過去にさかのぼって、自分の心のありようや行いを考えると、そこに原因を見出すことができる。ならば、その原因を断ち切ること、考え方や行動を改めることができれば、良い縁起をつくることができるのだ。これは非常に前向きな考え方で、自分の未来を自分で切り開くということだ。

ただし気を付けなければならないのは、未来を意識しすぎないことだ。先のことを考えすぎると、利己的な行動につながる可能性があるだろう。この人と付き合っておけば将来役に立つだろう、などと損得勘定ばかり考えて生きていては、決して良い縁起をつくり出せないだろう。未来に良い縁起をつくろうと考えて行動するのではなく、未来にとらわれず、現実を大切に生きる。その結果としてやがて良い縁起をつくることができる。そう考えること必要なのだろう。

 

そして「空」を知ることだ。

そこに見えているものには「実体がない」ということを意味すると同時に、現象の「有」を意味している。「現象が相互に限定したり、依存したりすることによって」生じるのである。つまり、縁起によって生じるということである。

「空」の理解は難しいが、すべてのものは周りとの関係性、縁起によってのみ初めて存在する相対的なものである、ということか。ならば周りのものも、もともと「空」であるから、一切は「空」であるともいえるのだろう。

そして「時間ですら空である」ことを知ることは重要だ。時間に追われたり、こだわること、過去を引きずったり、未来について思い悩むことも煩悩でしかない。

「空」を理解することは、煩悩から自由になることにつながるだろう。

 

そして煩悩から自由になるということは、何にもとらわれないことだ。周りに煩わされることなく、苦悩のない生き方ができればそれが一番だ。しかし現実は思い通りにはいかない。煩悩は悟っても依然生まれてくるものだともいう。だが、物事の本質が「空」であることを理解していれば、見えている悪い物事が、実は自分の心の現れであることがわかる。周りに惑わされのではなく、自分の心を見直すことだ。

 

また白取氏は、本書において日本人の仏教に対する認識の多くは誤りであると指摘する。仏と神を混同する、ブッダが超能力や神通力を持っていたと考えることなどは基本的な間違いであるが、極楽浄土の世界があると考えることや、輪廻によって生まれ変わると信じることなども誤りである。極楽浄土とは煩悩から離れた状態の比喩に過ぎないし、仏教では輪廻を否定している。しかし、これらもブッダの教えに忠実であれば理解できる。未来のことにとらわれず、今を生きろとブッダは言っているのである。死後のことに思い悩むこともとらわれているのである。

 

結局のところ、日本の仏教というのは、形を変え本来のブッダの教えから乖離している、というのが白川氏の主張である。本来のブッダの教えに立ち返ること、「縁起を知り、空を知る」こと、時間にもとらわれずに今を大切に生きることが最も重要であろう。

 

「何にもおもねることなく、煩わされることなく、今のこの自分の人生を全力で生きること」

 

この世の中のいっさいが自分という存在を支えていることに感謝し、今の現実を大切に生きたい。

 

 

仏教「超」入門 (PHP文庫)

仏教「超」入門 (PHP文庫)

 

 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村


書評・レビュー ブログランキングへ 

中村文則「何もかも憂鬱な夜に」

中村文則「何もかも憂鬱な夜に」(集英社文庫)

 

小説の冒頭は主人公の古い記憶から始まる。飼っていた小鳥を飲み込んだ蛇の表情。海辺に全裸で死んだ大人の女を、片膝を立てて抱え込んでいる光景。そういった不気味で悲しい記憶が主人公を覆っている。彼は「自分がいずれ何かをやらかすような、そういう不安」を常に抱えている。人間の内の混沌、葛藤、矛盾とともに物語は進行する。

 

主人公は孤児であり、施設で育った。幼い頃、施設のベランダの柵の上から飛び降りようとして、施設長に止められる。そしてその施設長から救いを得る。やがて彼は刑務官となり収容者と向き合う一方、彼自身も暴力性や狂気を見せる。ただ一線を越える寸前で何度も踏みとどまる。彼の友人の真下は思春期の混沌に耐え切れず、自殺した。真下は主人公に救いを求めたが、彼は手を貸さなかった。主人公は真下に思いをはせながら、拘置所の収容者たち、そして死刑判決を下された殺人犯の山井との関わりの中でやがて彼自身も変化をしていく。

 

小説の舞台は拘置所であり、拘置所でのトラブルは刑務官が不利になることが多いという。幹部はトラブルを恐れ無視する。出世に影響するからだ。私はこれこそが、現代社会の姿で、また自分自身の姿ではないかと思った。問題から目を逸らし、蓋をする。確かに登場人物たちの持つ心の闇は深い。あるいはそれらから遠ざかろうとすることも、一つの知恵ではあろう。しかし、そういった安易な風潮が社会のひずみを大きくし顕在化させているのかもしれない。この小説は人間の心の闇に対峙しようとした作品だ。

 

そして、この小説の特徴は登場人物たちの内面を描きつつも、その問題の解決の糸口を人類、あるいは生物としての大きな生命の流れの中に見出そうとしている点にある。 

人類の傾向は拡大だと思う。進歩と呼ばれているものだ。(中略)拡大には、積み上げていく「善」だけでなく、無駄を破壊する「悪」がいる。この二つがバランス良く並び、拡大が進む。犯罪的な人間は、その「悪」が変形し、ねじ曲がった亜種ではないだろうか。(真下のノートより)

 

真下は『犯罪的な人間は、その「悪」が変形し、ねじ曲がった亜種ではないだろうか。』とノートに記した。さらに『だがそれも、生物の、人間の根本的な構造から生じてしまったものではないだろうか。この根本の、軌道修正は可能か。』と続く。犯罪的な人間を人類の問題として捉えている。また主人公が育った施設の施設長は何億年も前のアメーバを引き合いに出して語る。

 

「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか?全て、お前だけのためだけにあった、と考えていい」

 

これは全ての人間を肯定するということだろう。今を生きている命は過去と線でつながっており、すべての命に意味がある。そして今を生きることは、未来への責任を負うということだ。小説は大きな救いを提示して終わる。おそらく作者は人類は可能性を持っていると考えているのだろう。人間の「悪」に対して、人類の大きな流れから見て肯定し、救いを差し伸べる。それこそが未来へと続く新たな線を繋ぐということだ。つまり人間の持つ力を信じている。他方人間が持つ「悪」から目を逸らそうとする人々は、人間の力を見くびっているともいえる。しかし、人類の進歩の過程から生まれた「悪」から逃れようとすることは、人類に対する怠慢であり冒涜でもある。そこに向き合うことなしに人類のさらなる進歩はない。

 

小説では登場人物が芸術作品に触れることで救われていく。施設長の言葉である。

 

「自分の判断で物事をくくるのではなく、自分の了見を、物語を使って広げる努力をした方がいい。そうでないと、お前の枠が広がらない」

 

人間、あるいは人類にとって拡大(進歩)することが、救いにつながるということだろう。しかしながら人類の拡大、つまり進歩の過程では「善」と「悪」が生まれる。同じように自分自身、個人の成長の過程においても、それらは姿を現すだろう。それを克服してこその進歩であろう。

 

小説のクライマックスで読まれる山井の手紙は、「死」さえも超越した「生」の意味が示される。私たちは、たとえ生きているとしても、「生」の意味を考えることをしないならば、未来へと線を繋ぐことはできないだろう。しかし連綿と続く人類の生命を考えると、おのずと「生」の意味、そして、なすべきことが見えてきそうだ。私たちは恐れすぎているのかもしれない。この小説には光がある。人類にはまだ拡大の可能性はあるだろう。「悪」を包み込む本当の意味での進歩の可能性だ。そのためには、それに伴う「悪」、そして「生」に向き合わなければならない。 

 

人類の傾向は拡大だ。それが宿命であり、救いだろう。

 

 

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

 

 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

 
書評・レビュー ブログランキングへ

 

 

 

齋藤孝「必ず覚える!1分間アウトプット勉強法」

「必ず覚える!1分間アウトプット勉強法」(PHP新書)齋藤孝

 

読んだ本の内容や、勉強したことなど、誰かに話したくなるものだが、いざ話そうとすると、これが難しい。まず、自分でもはっきりと内容を覚えていない、あるいは伝えたいことが多すぎてまとまらない。さらに聞き手が興味を持ってもらえるような面白い話にすることは、少なくとも今の私には不可能だ(涙)。

 

そこで実践したいのが「1分間アウトプット勉強法」だ。

これは、アウトプット=人に話すことを前提として勉強する、あるいは本を読むというものだ。これによって、記憶の定着率が高くなり、より理解が深まる。さらに時間を1分と区切ることで、無駄を削ぎ落とし、重要な点をを絞り込まなければならない。また、概要を把握するために、俯瞰的な視点で見ることも求められる。そして、聞き手が楽しめるようなストーリーとして話すことができれば、怖いものなしである。

「1分間アウトプット勉強法」とは? 

著者の齋藤孝氏にとって、「勉強」と「アウトプット」は常にワンセットであったという。人と話しながら、あるいは人に話すつもりで勉強する。アウトプットを前提とすることによって、インプットが濃密になる。

「1分間アウトプット勉強法」とは「1分間で意味のつながる説明をすること」である

その具体的な方法は次のようなものである

 

1.問いを立てる

3色ボールペンでキーワードを囲みながらテキストを読み込む

3.キーワードを盛り込みながら、ポイントを3点にまとめ、メモ書きする

4.問いに対して1分でまとめる

 

1.問いを立てる

定着率の高い勉強のためには、まず「問い」を設定しなければならない。

テキストの見出しを利用する、あるいは自分の関心から発した「問い」設定し、「答え」を求めながら読み込むことによって、より理解が深まる。

 

3色ボールペンでキーワードを囲みながらテキストを読み込む

次にテキストを読み込む。齋藤先生の一八番「3色ボールペン」だ。

「重要」「最重要」「個人的に面白い」部分のキーワードを囲みながら読む。

 

3.キーワードを盛り込みながら、ポイントを3点にまとめ、メモ書きする

それをメモにするのだが、要点は3つ程度に絞る必要がある。

要点ごとに先ほど囲んだキーワードを抜き出し、関係性を図化する。

=や➡などの使用、文字情報の「ゴシック化」などを駆使すれば、より立体的に見えてくる。

 

そして、ここで使いたいのが「川のフォーマット」だ。

「川のフォーマット」とは話し手と聞き手の間に、川が流れているとイメージし、手前の岸に「問い」、川の向こう側にその答えがあると想定する。ただ川幅が広く渡れないため途中に踏み石を置く。そこを渡れば誰でも理解できるというわけだ。

「川のフォーマット」のメリットに、「ある事象をつながりのあるストーリーとして捉えることができるようになる」ということがある。聞き手に面白い話として聞かせようとするならば、この点は有効だ。

 

 4.問いに対して1分でまとめる

最後に1分間アウトプットの実践だが、まず、大きな「問い」を冒頭で強調する。

「誰でも素朴に思う疑問」として提起できるとよい。

説明の最初に「主にこの三つ」と提示したほうがわかりやすく「論理的に見える」。

口語的な砕けた言葉を使い、感情として理解するのもよい。

 

 

と、ここまで「1分間アウトプット勉強法」をまとめてみたが、実践しなければ意味はない。

そこで本書「1分間アウトプット勉強法」「1分間アウトプット」に挑戦してみた。

 

「問い」はなぜ「1分間アウトプット勉強法」が有効であるか?

3つのキーワードは、「勉強とアウトプットはワンセット」、「川のフォーマット」、「勉強の意欲を高める」の3つにした。

これで、川のフォーマットを渡れるか?

 

「1分間アウトプット勉強法」を「1分間アウトプット」してみた

 

なぜ「1分間アウトプット勉強法」が有効であるか?

そもそも勉強から得た知識も、活用できなければ意味がない。

この勉強法は、勉強した内容を1分にまとめ、つながりのあるストーリーとして、人に話すつもりで勉強するというものだ。

まず、勉強とアウトプットはワンセットでなければならない。アウトプットを前提とすることで記憶が定着し、より理解が深まる。また1分であることもポイントだ。どんな話でも、そのエッセンスは1分程度にまとめることができ、逆に知識が足りなければ1分も話せない。聞く人への配慮として長くなりすぎないことも大切だ。

具体的な方法の一つは「川のフォーマット」を使うことだ。話し手と聞き手の間に、川が流れているとイメージし、その川を渡ればメッセージを聞き手に届けることができる。途中で段階を追って説明するための踏み石も必要だ。これを使うメリットは3つある。一つ目は記憶の定着、二つ目にある事象をつながりのあるストーリーとして捉える習慣ができること。三つめが自ら「問い」を立てる習慣がつくことだ。

また、「1分間アウトプット勉強法」は勉強の意欲を高めるという点においても有効だ。アウトプットすることによって、さらなる意欲が生まれる。この好循環こそが勉強のあるべき姿であり、人を活き活きとさせるのだ。「話す力」、「コミュニケーション力」の向上にもつながる。

このように「1分間アウトプット勉強法」はあらゆる面において有効であるが、最も重要なことは「勉強=実践」の回路を身につけることだ。練習のための練習では、意味がない。本番こそが必要な力を鍛えてくれる。

 

どうだろう。

まとめただけになってしまった・・・。

ストーリー性は皆無、面白味ゼロだ(哀)。

 

しかし、実践あるのみ。

勉強=実践」だ。

 

必ず覚える!1分間アウトプット勉強法 (PHP新書)

必ず覚える!1分間アウトプット勉強法 (PHP新書)

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村 


書評・レビュー ブログランキングへ

又吉直樹「火花」

又吉直樹「火花」(文藝春秋

 

タイトルを「花火」だと勘違いする人は多いだろう。冒頭から花火大会の場面だ。群衆を歓喜させる色とりどりの鮮やかな光と爆音。片や誰も立ち止まらない沿道に置かれたビールケースの上で漫才をする若手漫才師。「花火」はまだ何物でもない若者らが夢見る「成功」の象徴であろうか。また「花火」の美しさは一瞬であり、はかなさも魅力である。芸人の世界は栄枯必衰、その一瞬の輝きのために、もがき這い上がろうとする彼らにしかない輝きがあるのか。

しかし本文中に「火花」という言葉が一度だけ出てくる。

 

自然に沸き起った歓声が終るのを待たず、今度は巨大な柳のような花火が暗闇に垂れ、細かい無数の火花が捻じれながら夜を灯し海に落ちて行くと、一際大きな歓声が上がった。

 

「花火」は無数の「火花」から構成される。華々しいスポットライトを浴びる者たちの陰で敗れ去った者たち。その散って消えてしまう「火花」こそが、成功を夢見る若者たちか?

などと、色々考えてしまう時点で、おそらく作者の術中にはまってしまっているのだろう。しかし、あれこれ想像をめぐらすのも読書の楽しみの一つである。

 

 小説「火花」は現役のお笑い芸人、又吉直樹氏がかいた芥川賞受賞作、大ベストセラー作品である。読書家で知られる又吉氏の地に足の着いた筆致と、芸人ピース又吉としてのエンターテインメント性が発揮された読み応え十分の小説だ。

お笑い芸人の世界を舞台として描かれた、若手漫才師と、彼が師匠とあがめる先輩芸人との師弟物語である。

 

リスクを顧みず、いつの日かの成功を夢見て挑み続ける若者たち。一見無謀であるかのように思える生き方をする彼らの姿は眩しい。そして主人公「徳永」が持つ世間からの疎外感、自分より早く売れていく者に対しての嫉妬や焦りは、私の胸に自分の物のようにじりじりと胸に刺さる。ただ私が「徳永」よりずっと年を取っていることを考えると、いまだにそういった感情を持ち合わせていることは私を一層不安にさせるのだが。

 

また青春小説としての魅力に加えて、お笑い論が展開されているところは、誰もが興味を持ち見逃せない点だろう。ここにお笑い芸人ピース又吉としての企てが透けて見えそうだ。

 

「笑われたらあかん、笑わさなあかん。って凄く格好良い言葉やけど、あれ楽屋から洩れたらあかん言葉やったな」

 

と、登場人物に言わせつつも、芸人の内部機密を垂れ流しているのだから。真剣に議論する芸人たちの姿、胸の内をあえてさらすのは、世間に対して芸人への理解を深めたい、あるいは世間のお笑いのレベル向上という目論見もあるのか。

 

また先輩芸人への挑戦状という意味合いもあるだろう。

「火花」に登場する先輩芸人「神谷」は典型的な芸人像として描かれている。しかし作者、又吉氏にとっては「かつての古い」理想像なのではないか?

先達者たちへのリスペクトは見せつつ、それに代わる新しい価値観の構築をもくろむのかもしれない。

ただ、 彼が目指しているものは「新しいお笑い」だけでなく(もちろん追求するだろうが)、「新しい表現の形」を模索しているのではないか?と想像してしまう。従来の型から脱却した、新しい提示が求められるのは時代の要請でもあるかもしれない。小説終盤にジェンダー問題について言及していることからも、それがうかがえる。「面白ければ何でもあり」という古い考えへの警鐘であろう。かつては許されたことでも、今では幅広い配慮が必要で、マイノリティーの視点も持たねばならない。社会環境の移り変わりによって、芸人たちも変化を余儀なくされているのだろう。

 

小説に話を戻すと、「火花」とは芸人たちの葛藤、挫折であろう。

彼らは本気だった。熱を持ち、くすぶり続け、ある者は輝きを見せ、ある者は破裂した。作者は自らも含め、共に戦った芸人たちの姿を描ききった。

「花火」は連帯の証だ。誰か一人の成功ではない。花火は一人で打ち上げられるものではなく、散っていった無数の「火花」によって光輝いた。戦友たち、観客を含め同時代にかかわった人たちへの感謝だろう。

 

この小説は芸人の世界を去った者たちへの鎮魂歌であり、再生の詩である。

新しい一歩を踏み出すためは欠かせない総括だ。

やがて彼らによって次の花火が打ち上げられるだろう。

それは、いまだかつて見たことがないような色彩を放っているかもしれない。

  

火花

火花

 

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村 

 
書評・レビュー ブログランキングへ