読書百遍

これまでの「読んだ本の内容を覚えていない」という、悲しい読書からの脱却を目指し、「熟読」「再読」「アウトプット」の読書を目指しています。 

平野啓一郎「マチネの終わりに」 過去は変えられる

 平野啓一郎「マチネの終わりに」

過去は変えられる

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに

 

 

主人公の蒔野聡史は世界を股にかけ活躍する、天才クラッシックギタリスト。彼の20周年記念コンサートツアー最終日は、後に語り草になるほどの大成功を収めた。そのコンサート後の楽屋で小峰洋子に出会う。洋子は有名映画監督の娘で、フランス通信社の記者だった。彼女にはリチャードという婚約者がいたが、聡史と洋子は惹かれ合い、やがて洋子は婚約を破棄し、蒔野と結婚することを決意する。しかし目前に蒔野を慕うマネージャーの早苗の噓によって、二人はすれ違い、別れを迎える。蒔野は早苗と結婚、洋子はリチャードと復縁し、別々の人生を送ることになった。また蒔野はあのコンサートの日を境に、ギタリストとして長いスランプに陥っていた。

 

音楽に於ける深みと広がり。長きにわたって幾度となく聴き返されるべき豊富さと、一聴の下に人を虜にするパッとした輝き。人間の精神の最も困難な救済と、せわしない移り気への気安い手招き。魂の解放と日々の慰め。――現代のオブセッションのようなそうした矛盾の両立は、ここ数年、蒔野が苦心して取り組んできた課題だった。

 

まず読者は主人公である蒔野と、作者平野啓一郎氏を重ね合わせずにはいられない。誰もがその才能を認める天才ギタリストである蒔野は、四十歳を間近にして、スランプという初めての挫折を味わう。同じく若くして芥川賞を受賞し、現在の文学界を牽引する平野氏も、今や四十代だ。トップランナーゆえの葛藤はあるだろう。彼ら表現者にとって自己の芸術性の追求とともに、もう一つ共通する重大な問題は、聴き手や読み手との距離の取り方だろう。その点を平野氏は非常に意識した作家だといえる。

 

蒔野のような、生まれ持った才能が、否応なく他人の嫉妬や羨望を搔き立ててしまう人間は、何か意外な親しみやすさを身につけなければ、たちまち孤立してしまうのだろうと、洋子は考えていた。

 

平野啓一郎氏というと、どうしてもはデビュー作「日蝕」による文学的で難解なイメージが強い。私もかつてはそんな印象だった。しかし、いくつも出版されている新書やインタビュー記事を読むと、彼は非常にわかりやすい表現で語り、親しみやすい人物である印象を受ける。この小説「マチネの終わりに」においては、そんな平野氏の気安さと、文学での表現者としての奥深さが見事に同居している。つまり、わかりやすく、凄みがあり、面白い。私は読み始めると、その芳醇な言葉や文章に線を引き、ノートに書き留めずにはいられなかった。それらはあまりにも優雅で、上品だ。言葉と、それによって導かれた音楽がもたらす「静寂」。しかしその「静寂」に浸ってばかりもいられないのが、現代の私たちの生活だ。蒔野と洋子も、社会情勢や、あらゆる「日常の喧噪」によってかき乱されることになる。やさしく流れるようなアルペジオ主体の伴奏と、滑らかな美しい旋律。それらに電子音が混じりだし、複雑なリズムを刻み始める。

やがて恋する二人の男女に転機が訪れた。すると私は言葉を書き留めるよりも、先に先にと、ページをめくるのがもどかしいと感じるほどに、物語は急激にスピード感を増し、大きくうねり始める。

 

蒔野と洋子の恋はあまりにも美しい。しかし結局それは叶うことがなかった。私は二人の恋とは、人々が持つ理想であり、夢ではないか?と考えた。

40歳を過ぎた人間にとっての理想や夢とは何か。

確かに幼い頃の夢を実現した人や、今なお理想を追い続ける人もいるかもしれない。しかし多くの人は、挫折を経験しているに違いない。そのような人々にとっての理想とは、おのずと幼い頃に描いていたものとは異なっているだろう。

小説中、洋子は父親から「《ヴェニスに死す》症候群」だと言われる。その定義は『中高年になって突然、現実社会への適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出ること』である。

人は長く生きるにしたがって、背負う荷物も多くなる。やがて疲れ果て、時にその全てを投げ出してしまいたくなる衝動に駆られることもあるだろう。ただその先に待つものは必ずしも幸福だとは限らない。蒔野と洋子は悲劇的ともいえる別れの後に現実的な選択をする。恋愛中の二人は絵画的にも思えるが、別々の道を歩み始めた二人は生活感を伴った、私がより身近に感じられるものだ。

 

つまり蒔野と洋子の恋とは、理想や夢にすぎず、実際には存在しないパラレルストーリーととることも可能だ。人は自由に理想を描くことが出来る。実際にいくつもの分岐点があり、もしかするとあったかもしれない、「別の自分の人生」を想像することもあるだろう。しかし私たちが生きることが出来るのは現実のただ一つの人生だ。それは悲観すべきことなのだろうか?

「マチネの終わりに」で繰り返されるのは、「過去は変えられる」という言葉だ。

 

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それほど繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

 

「過去は変えられる」というのは、言われてみれば思いがけない発想だ。過去は固定されたものである、と考えがちだ。私は過去を振り返ることは好きではない。あまり良い思い出として残っているものがないからだ。嫌な「過去」を否定し、「未来」を変えるために行動する。それも確かに前向きな考え方だと言えるだろう。いずれにしても、「過去」というものは、現在の自分を形成する大部分を占めていると人は考える。しかし、もし「過去が変えられる」のならば、現在の自分もおのずと変わってくる。「過去を否定して生きる」のではなく、「過去を肯定して生きる」、それは現在の自分を肯定することにほかならない。そして人生を生きる上での「新しい視点」が持ち込まれるということだ。

 

この小説の登場人物たちは四十代だ。平野氏、そして私も同世代である。社会の「際限のないうるささ」に疲れ、あるいは幻滅している人もいるだろう。そういった私たちの世代が今持つべき理想や夢とは何だろうか?社会とどのように折り合いをつけていくべきなのか?

四十歳というのは人生において折り返し地点といえる。少なくとも四十年は生きてきた。それだけの経験があり、それぞれの「過去」を持っている。確かに良い「過去」ばかりではない。しかしそれに違う角度から光を当てることによって、「過去は変えられる」のだ。するとおのずと現在をも変えてしまう。それはある人にとっては、人生の再生であり、新しいスタートを可能にする。

 

「花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんな風に、過去に向かっても広がっていく。」

 

人は現在を生きているはずだ。しかし人生とは決して一本道ではなく、人は前にも後ろに進むことが出来る。同時にいくつもの並行した道もあるかもしれない。それを知ることによって、現在見える景色も、流れる音楽も変わるだろう。

 

「マチネの終わりに」は現代の喧噪に生きる私たちを癒し、また明日の意欲を掻き立てる。一本のクラッシックギターによって奏でられた音楽は、包み込むような気安さに溢れている。しかしその手招きによって導かれたその先には、時空を超えた、深遠な音楽と文学の世界、そしてそれぞれの人生の広がりへとつながっている。

 

 

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藤原智美「文は一行目から書かなくていい」一本の井戸を深く掘り下げる 

藤原智美「文は一行目から書かなくていい」 

 

 

現代のインターネット社会においてデジタル化された文章は、私たちにどのような影響を与えているのか?

作者の藤原智美氏は電子書籍と紙の書籍の違いを、「遠浅の海か、一本の井戸か」と表現している。電子書籍はネットとつながっており、いわば広大な海であり、自由に飛び回れる可能性を秘めているが、同時に考えが散漫になるということでもある。一方の紙の書籍は、「深く掘り下げていくと豊かな水脈があり、物事の深淵にふれることができる」としている。確かにネットは便利ではあるが、その膨大な情報量が私たちの手には負えなくなってきている、というのは誰しも実感していることではないか?そして、そういった文章のまつわる環境が現代の人々の思考にも大きな影響を与えている、というのが藤原氏の指摘である。

 

例えば藤原氏はネット時代の文章の弊害として、コピー&ペーストがあるとしている。知りたい情報をネットで検索し、それをコピペしてつなぎ合わせることによって、あたかも自分で書いた文章であるかのように仕上がってしまう。しかしそれは本人の文章力ではなく、編集力であると藤原氏は言う。安易なコピペを繰り返すことによって、本人の文章力は衰えていく。

あるいはTwitterやメールなどに見られる、短い文章が多くなっているのも現代の特徴だ。これは文章よりもその中身の情報に、重きを置くようになったと言える。よりわかりやすい表現が求められているのだ。もちろんわかりやすいということは、一概に悪いことではないが、読み手が思考を必要としなくなる、とも言えるだろう。わかりやすさばかりを求めると、思考力や文章力の低下は免れない。

 

このように現代はわかりやすい情報とその速報性が重視され、文章力は二の次とされていることがわかる。しかしそんな状況であればこそ、確かな文章力と思考力を持つことは、大きなアドバンテージとなるだろう。

そのために必要なことは、「底なしの深い海に潜っていくような思考」であり、また「バラバラな断片として自分の中に散らばっているピースの中から、心に引っかかったものをすくいあげる」こととある。本書にはそのための実践的な文章術が示されている。

 

本書は、前半で実用的な文章術について、後半は現代のネット・デジタル時代においての文章の在り方や書くことの意味について考察されているのだが、前後半でその文章の印象が違う。あとがきに記されているが、執筆途中に東日本大震災があったことが影響しているようだ。そのため特に後半部分の藤原氏の文章は、まさに「一本の井戸を深く掘り下げる」かのような、真摯で文学的な薫りが漂っている。上滑りする情報と思考が氾濫する現代に求められるのはこのような文章だろう。そして同様に私たちがすべきことは、「一本の井戸を深く掘り下げる」ことであり、「心に引っかかったピースをすくいあげる」ことである。それはともすれば自分の心の中や足元に転がっているものであって、見つけることは難しくはないものかもしれない。そして、そのためには「書く」という行為が最も近道であるようだ。

 

 

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樋口裕一「読んだつもりで終わらせない名著の読書術」 一冊の名著を多読する

樋口裕一「読んだつもりで終わらせない名著の読書術」 一冊の名著を多読する

 

私が読書をするうえで心掛けていることは、内容をできるだけ記憶しておくようにすることだ。読んだのはいいが、中身について聞かれたときに何も覚えていないようでは寂しい。

しかし、本を最初から最後までじっくり読んだとしても、内容をしっかり理解できるとは限らない。特に長編や古典の難しい本であると、読み進めるうちに混乱してしまうことがある。そういった本であっても、スッキリ理解できるようになりたい、そんな私の読書に多くのヒントを与えてくれたのがこの本だ。 

  

読んだつもりで終わらせない 名著の読書術

読んだつもりで終わらせない 名著の読書術

 

 

本書はタイトル通り、名著と呼ばれる文学作品をどう味わい、忘れないようにするか、そのための方法が示されている。

樋口氏は名著を味わうための方法として、

  • 予習
  • 読み
  • 復習(繰り返し読み)

と、3段階に分けることが必要だと言う。

 

名著というと難解なイメージを持ってしまうが、それをどう攻略するのか。樋口氏によると名著だからこそのメリットがあるという。名著であれば、その作品について多くの評論家、作家、ブロガーに言及されていたり、映画化やドラマ化、漫画化されてたりなどしていて、その本以外からの情報量が得られる。読書の前に、そういったもので予習しておくことによって物語にすんなりと入りやすい。あらかじめ膨らませておいたイメージが読書のハードルを下げてくれる。それが①の予習にあたるわけだ。

 

次に②の1回目の読みでストーリーを追って読む。その読み方についても多くの方法が説明されているが、特に興味深かったのは「レッテル貼りをしてから読む」というものである。例えばこの小説は「恋愛小説」「冒険小説」などと前もってジャンル分けしてから読むのだ。むしろ私は先入観を持たずに読み始めたほうがいいのだろうと思っていたのだが、そうとばかりも言えないようだ。レッテル貼りをすることによって、読み手としては一本の軸ができ、イメージが膨らみやすい。読後にそのレッテルが変更されてもかまわないし、それはそれで新しい発見があったということだ。

 

そして最も重要なのは③で、その後繰り返し読むことである。

「たった一度で読んだつもりになっていては、非常にもったいない!」と言う樋口氏には完全に同意である。名著というのは「多様な解釈が可能」であり、繰り返し読むと、前回とは異なった読み方ができる。同じ本を読んでいるわけだが、ある意味違う本を読んだともいえる。つまり一冊の本を繰り返し読むということは、「多読」しているのと同じだ。現代は多くの本を読むという意味での「多読」「速読」が幅をきかせているが、この「一冊の名著を繰り返し読む」ことのメリットは相当大きいと思う。一冊の本から「多様な解釈」をするためには、読解力や想像力が求められる。そのためには本書にあるように、あらゆる技術と五感を総動員して一冊の本を「あじわいつくす」ことが必要だ。

 

読書において大切なのは「本を読む」という行為ではなく、「本から何を得るか」ということだろう。そういう意味では、型にはまった読書の仕方よりも、本書のように、ありとあらゆる手段を使って読解の手助けをしたほうが、より良い読書になるに違いない。私も「読んだつもりで終わらせない」樋口メソッドをつかって名著を繰り返し読み、自分の血肉にしたい。

 

 

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金城一紀「GO」 世界との距離感

イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ大統領の誕生など、世界を揺るがすニュースが続いている。両国内の世論が二分されていることからも、問題が単純ではないことが見て取れる。グローバリゼーションや技術革新によって世界は画一化されようとすると同時に、より複雑に混じり合い多様化していく。総じて現代が抱える問題というのは、混沌とする世界にどう向き合い行動するかであり、それは国家や企業のみならず、それぞれ個人の課題でもある。

 私はそういった世界のニュースを目の当たりにして、ある小説を思い出した。金城一紀氏作「GO」である。

この小説はあくまで、ある少年の個人的な話に過ぎない。しかし彼の人生に待ち受ける困難というものが、あまりに今世界が直面している多くの問題と重なり合う。そして彼の生き方の中には、あらゆる問題解決への示唆があると思うのだ。作者の金城一紀氏はインタビューで「今までに書かれたことがないものを書きたかった」といった趣旨の発言をしている。私は「GO」は、まさしく「今までに書かれたことがない小説」だと思うのだ。

  

GO (角川文庫)

GO (角川文庫)

 

 

 

「無知と無教養と偏見と差別」。在日朝鮮人として日本に生まれ育った主人公の杉原は、生まれながらにして、それらに囲まれて生きてきた。

 「国籍とか民族を根拠に差別する奴は、無知で弱くて可哀想な奴なんだ。だから、俺たちが色々なことを知って、強くなって、そいつらを許してやればいいんだよ。」

 そう言う彼は文字通り強くなろうとする。元プロボクサーの父にボクシングを教わった彼の喧嘩の戦績は二十三勝無敗。中学時代は「クルパー」というあだ名を付けられていたが、3年になると日本の高校を受験することを決意し、猛勉強を開始する。「無知と偏見」から身を守るために、本を読み理論武装した。高校に合格した彼に、やがて桜井という彼女ができる。二人が夢中になったことは「カッコいいものを探すこと」。本屋やCDショップやレンタルビデオ店で「何か」を感じ取ったものを直感で選び、お互いに薦めるというものだ。しかし杉原は桜井に自分が「在日韓国人」であることを打ち明けないままでいた。やがて二人がついに結ばれようというとき、杉原はそれを初めて告白するのだ。

 

この小説の一番の特徴は、ユーモアをふんだんに含んだ軽やかな文体だ。その文体から私が持っていた「在日」という言葉が持つ、「安易には触れてはならないもの」という負のイメージが覆される。そしてそのイメージこそが、「無知と無教養と偏見と差別」そのものであることを知らされるのだ。

この物語は作者である金城一紀氏の自伝的小説のようであるが、この軽やかな文体から金城氏が、世界とどう関わろうかとしているかがうかがえる。私が「GO」を読んで、最も考えさせられたのが「他者との距離感」の重要性だ。

 

主人公杉原の人生は困難の連続である。「無知と偏見」によって差別を受け、日本の高校へ進学しようとすれば「裏切者」というレッテルを貼られる。民族学校というのはいわば壁で守られた場所であり、そこにいる限り安全なように思えるが、壁の外を知ることは出来ない。彼は壁の外へ出るという選択をした。父親の勧めに従い朝鮮籍から韓国籍へと変え、日本の高校へ進学する。友人が日本人高校生に刺され命を落とすという事件が起こるが、復讐しようと持ち掛ける民族学校の仲間たちには同調しなかった。彼は他者に依存することなく、彼独自の生き方をしようとしたのだ。では何が彼をそうさせたのか。おそらくその要因として彼の肉体的な強さ、知識、そして多様な価値観を知っていたことがあるあろう。彼は彼女である桜井とともに、様々な芸術に触れる。映画、音楽、絵画、小説。困難に陥ったときに彼がとった行動は、内にこもることではなく、自分の外側に広がる世界を知ろうとしたことだ。それによって彼はおそらく客観的に物事を捉えることが出来るようになったのではないか。彼にも当然憎しみや苦しみはある。強くなろうとしたが、結局なにか問題が解決したわけではない。しかしそれに過度に執着することなく、前に進もうとした。

 

杉原の生き方には、現代を生き抜くヒントがある。現代は様々な問題が複雑に絡み合い、一つの答えを導き出すことは困難だ。しかし物事は前に進めなければならない。そこで必要になるのが「他者との距離感」ではないだろうか。多様な価値観を持った人々、それらすべてを理解しようとするのは無理がある。経済格差、宗教や文化の違い、人種、国籍、性別、世代、利害関係、歴史認識、思想の違いなど数え上げればきりがない。いや、本来すべての人が違うものだと考えるべきなのかもしれない。そのような世界でどのように他者と関わるかは、人間にとって究極で最も切実な問題だ。

 

私はここ数か月小説「GO」についての感想を書き続けていた。この小説は驚くほど現代社会の問題との一致があり、とりとめがなくなってしまった。言及すべきことが多すぎるのだ。そしてその一つ一つが重大で、答えの出るようなものではない。「GO」を語ろうとするならば、世界の全ての問題を語ることになってしまう。そうやって投げ出しかけたときにようやく気が付いたのだ。世界とは、そして人生とはそういうものではないか。あらゆる複雑な問題が立ちはだかり、困難の連続だ。しかし生きていかなければならない。そのとき初めて小説のタイトル「GO」の意味がわかった。たとえどんな壁が立ちはだかろうと前進しなければならない。これこそ世界の進む道であり、生きる意味だろう。

 

そしてもう一つ言及しておきたいことがある。「GO」は父と子の物語でもある点だ。父親は息子にボクシングと人生の厳しさを教えた。息子のために自ら朝鮮籍から韓国籍に変えた。それは多くの犠牲を伴うにもかかわらず、息子の「足枷」を一つでも外そうとしたものだった。自分を捨て息子に希望を託そうとしたと言えるだろう。親が子を思う気持ちだと言ってしまえばそれまでだが、ここにも大きな手がかりがあると思うのだ。今も世界に横たわる多くの問題、その中の幾つかは解決が非常に困難なものもあるだろう。もちろん現在生きている私たちは当事者であり、早い解決を望むのは当然だが、簡単には物事は進まない。そのようなとき、問題解決を次の世代に託す、という選択肢もあるのではないか。いわゆる問題の棚上げということだ。相手と対立したときに、殊更それを強調して憎しみ合うよりも、意見の合わない部分は一旦脇において、一致できる部分だけでも認め合う。それによって少しでも前に進むことが可能だろう。確かにそれでは根本的な問題解決にならないという意見もあるだろう。しかしたとえば今生きている私たちの時代から距離を置いてみる。次の世代を見据えて物事を考える。もっと言えば、自分は連綿と続く人類の歴史を繋ぐ一つのピースだと考える。たとえ問題の解決に至らずとも、次の世代に「たすき」を繋ぐことが出来るならば、それは意味があることだろう。

 

「GO」が私につきつけてきたものは、あまりにも大きい。「無知と無教養と偏見と差別」はその一つだ。自分のまだ知らない世界、多様な価値観を持つ世界を知ろうとすること、あるいは自分が何を知らないかを知ることは必要だろう。しかしその全てに向き合おうとするのは不可能なことでもある。そうであれば人間は「無知と無教養と偏見と差別」からは逃れられない。それを自らが受け止めた上で、他者と関わっていくこと重要だと考える。

世界は複雑だ。人生は困難だ。しかし前に進まなければならない。結果として上手くいかないとしても、きっと次の世代の誰かが「たすき」を受け取ってくれるだろう。私たちが出来ること、それは過去から未来へと繋ぐ今を生きること、すなわち「GO」だ。

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百田尚樹「雑談力」

百田尚樹「雑談力」(PHP新書)

 

今は「雑談本」ブームのようで、書店には雑談に関する書籍が多数並んでいる。雑談が苦手な私は特に関心を持ってそれらの本を手にするのだが、その多くはコミュニケーションとしての雑談、つまり人間関係を円滑にするための手段としての雑談を前提に書かれている。

 

ただ百田尚樹氏の著書「雑談力」は明らかにそれらとは一線を画すものである。

永遠の0」、「海賊と呼ばれた男」など次々とヒットを飛ばすベストセラーを作家であるだけでなく、今や平成の方言王として君臨する百田氏であるならば、ただの雑談本で終わるはずもないだろう。雑談力のみならず、彼の創作の裏側を覗くことができる貴重な一冊だ。

 

雑談力 (PHP新書)

雑談力 (PHP新書)

 

 

まず注意したいのは、百田氏のいう「雑談力」というのは、人をひきつけ、楽しませる「面白い話をする」力のことである。当たり障りのない会話で場をもたすのではなく、自分の話で場を盛り上げ、聞く人の心をつかむ。

百田氏はそのような話をする場合に必要なのは構成能力だという。

 

百田氏いわく「起承転結を考えて、尚かつ盛り上げにも留意して、最後のオチも決める」、さらに「これを即興でやるのがトーク」であるならば、それがいかに難しい技術であるかがわかるのだが、本書では百田氏の「話し方のテクニック」「話題の選び方」「話をする際に気を付けること」などがふんだんに紹介されている。

そしてそれは百田氏の小説執筆の手法と同じと考えていいだろう。読書愛好家ならばこれを見逃す手はない。

 

本書から感じるのは百田氏の圧倒的な知的好奇心とサービス精神である。

百田氏の小説の特徴はジャンルが多岐にわたることである。零戦の話である「永遠の0」、ボクシングの話である「ボックス!」、スズメバチがテーマである「風の中のマリア」など、なぜ関連が全くないような作品を次々と生み出せるのか私には疑問だった。その秘密は彼の好奇心と膨大な読書量にあるようだ。本書においてその一端が紹介されているのだが、生物、化学、歴史、数学、スポーツなどなど、古今東西ジャンルを問わず彼の興味は尽きることがなく、その様々な分野の横断的な読書が新しい発想、さらなる好奇心を生み出すのだろう。

 

そして最も重要だと思われるのが、百田氏のサービス精神である。

「一番大切なことは『人を楽しませたい』という気持ち」というように、「人を楽しませたい」「人に喜んでもらいたい」という気持ちが面白い話をすることの動機づけになり、そのためにはどうすればよいのかという工夫につながるのである。もっとも百田氏の場合は、サービス精神が強すぎるせいで失言や暴言が飛び出したびたび炎上。そこまで真似する必要はないだろう。

 

もう一つ興味深いのが、「相手ではなく、自分が関心を持つ話題を話せ」という点である。

しかし一般的には、むしろ「相手が興味を持ちそうな話をするべきだ」という考え方のほうが主流だと思われる。ただ本書を読んでいても感じるのだが、百田氏の文章からはエネルギーがあふれている。つまりそれは彼が本当に自分で興味を持っていること、面白いと思っていることしか語っていないからではないだろうか。その熱が伝わって読者をひきつける力になっているものと思われる。「自分が関心を持つ話題を話せ」というのは一見先ほどの「サービス精神」と矛盾するようだがそうではない。「人を楽しませたい」という気持ちを忘れなければ両立するのだろう。また自分のオリジナリティを出すこともできる。そもそも自分で興味のない話を他人に面白く伝えようというのは無理がある。

 

読書によって得た知識や自分が体験して面白かったことを、自分の中に閉じ込めたままにしておくのはもったいない。それを雑談という形でアウトプットすることは、その理解を深め、さらなる好奇心を喚起することになるだろう。さらにコミュニケーションの手段として有効ならば行動に移さないという手はない。

 

まずは読書、あるいは自らが行動しその経験を蓄える。これらはインプットだ。自分の興味の枠を広げ、また深く掘り下げる。そして「人を楽しませたい」というサービス精神をもって面白い話としてアウトプットする。これは人からどう見られているかを考えることであり、自分を客観視することでもある。これを繰り返すことによって相乗効果を生み、より豊かな人生を送ることができるのだろう。

 

「雑談力」、それは自らが楽しみ活力を生むだけでなく、周りを巻き込み幸せにするパワフルな力である。

 

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百田尚樹「永遠の0」

百田尚樹永遠の0」(講談社文庫)

   

今年は太平洋戦争開戦から75年である。

戦争について知ること、その大切さは自覚しているつもりだが、これまでの私はそこから逃げてきたように思う。私の両親は80代で戦争を記憶している最後の世代だ。私が幼少の頃、父は戦争の話を私にしたが、私はそういった話を聞くのが嫌だった。当時は戦争の話というものが、何か気味の悪いもの、格好の悪いものと感じていた。その後、父が戦争について語ることはなくなったが、私の中にどこか後ろめたい気持ちがずっと残っていた。そして歳を重ねるにつれ、戦争について学ぶことこそ、自分に最も必要なのではないかという思いが大きくなってきた。

そういった私にとって、また戦争を知らないすべての人にとって、百田尚樹永遠の0」は戦争について知ること、考えることの大きな手掛かりとなる小説だ。

 

永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)

 

 

主人公は26歳の健太郎だ。祖父は宮部久蔵。零戦パイロットとして戦争を戦い、終戦間近に特攻で亡くなった。宮部は凄腕を持ったパイロットであったが、周りの兵士たちからは臆病者と呼ばれた。「生きて家族の元に帰ること」を願った彼だが、なぜ自ら特攻で命を落としたのだろうか。主人公健太郎が姉と共に祖父の生涯を調べ、彼を知る元兵士たちに話を聞くという形で小説が進んでいく。率直な疑問を元兵士たちにぶつける場面もあり、戦争を知らない私たちが当時を知るにはうってつけである。

 

この作品でまず思い知らされるのは、戦時中いかに兵士たちの命が軽んじられたのかということだ。元兵士たちの話では当時の大本営や軍令部の作戦が常に場当たり的なもので、特攻はその最たるものであったと語られる。無謀な作戦が繰り返されるなか、上層部や高級士官のミスは不問にされ、一般兵士たちの命はあたかも将棋の駒のように粗末に扱われた。また、兵士たちもまさしく命懸けで、死を覚悟して兵役についていた。今では生命の尊さについて当たり前のように語られるが、当時は生命というものが今よりも軽いものとして扱われていたのだ。

 

そんな状況の中、健太郎の祖父、宮部久蔵は臆病者と呼ばれ、「命が惜しい」、「生きて家族のもとに帰りたい」と願った。彼はおそらくフィクションとしてつくり出された人物であろう。当時の軍人は命が惜しいなどと口にすることは許されなかった。しかし誰もが命は惜しく、生きて家族や愛する人の元へ帰りたかっただろうというのは当然のことだろう。その当然のことすら、かつては言葉にできなかったのだ。

 

作中登場する高山という新聞記者の話は特に興味深かった。彼は特攻隊と現代のテロリストには共通点があり、特攻隊に志願した人々は狂信的な愛国主義者であったと語る。彼らの遺書や残された手紙からは宗教的な殉教精神や一種のヒロイズムが読み取れるという。ともすれば、私もそのような意見を聞いて受け入れてしまいそうだが、それを聞いた元特攻隊員は激怒したのだ。遺書は特攻隊員の本心ではないという。当時は手紙にも検閲があり、軍部への批判や弱々しいことを書くことはできなかった。さらに残されることになる肉親や愛する者にそのような思いをさらすことは、彼らをさらに苦しめることになるからだ。そういった背景を無視して、彼らが死を怖れなかったというのはあまりにも安直だというのだ。

 

私はここに今私たちが考えるべきポイントがあるのではないのかと思う。戦争を知ること、それには事実を知らなければならない。しかしそれだけでは足りない。歴史の中の行間を読むことが必要なのだろう。

戦争について現代の視点からだけで語るならば、あまりに精度を欠いたものになりかねない。平和な暮らしを享受している現代の日本人から当時を理解するのはたやすいことではなく、誤った認識や解釈では日本の将来を間違った方向に導くのではないかという、作者百田尚樹氏の問題の提起のように思えてならない。そういった現代の流れは、現実を見つめることなく無謀な作戦を繰り返した、かつての大本営や軍令部を連想させるものである。

 

小説「永遠の0」ではクライマックスで宮部久蔵について意外な事実が明かされ、私の心は揺さぶられるように震えた。それは人間が持つ愛だ。それはとてつもなく遠大で、またごく身近にあるものだ。誰にでもそれぞれの人生があり、将来があり、夢がある。家族があり、愛する人がいる。そしてアメリカやアジアの多くの国々でも多くの犠牲が払われたことも忘れてはならない。彼らにも人生があり、守るべきものがあったのだ。

 

確かに平和や愛を唱えるだけでは戦争はなくならないかもしれない。しかし、かつて日本のために命を懸けて戦った人たちがいたこと、また祖国のために戦った外国の人々、あるいは今も世界の各地で戦争をしている国々の人々について、思いを馳せ自分のこととして考えてみることは決して無駄ではないだろう。

 

戦争を学ぶことは難しい。日本からの視点だけでは語ることは出来ず、不安定な国際情勢は未来を一層不透明にさせている。大局的な観点から考えることが必要な一方、戦争が人々から何を奪い去るのかは忘れてはならない。

どんな惨劇も時間と共に薄れ、やがて忘れ去られていくものだろう。戦争を体験した方々もいつかいなくなる時は来る。しかし彼らの犠牲の上に今の私たちの今の平和な暮らしがある。それを享受している以上、私たちはそれを知る方々から次の世代へとつないでいく義務があるだろう。

 

永遠の0」は戦争を知るための一歩である。その先に自ら学ばなければならないことは多い。私が幼いころ嫌だった、父の戦争の話。次に父に会うときは聞いてみようと思う。

 

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瀬戸賢一「日本語のレトリック」ー文章表現の技法

瀬戸賢一「日本語のレトリック」ー文章表現の技法(岩波ジュニア文庫)

 

名作と呼ばれる文学作品を読んでも、その良さがわからないということはよくある。

どこがおもしろいのか?なぜ評価されているのか?

もちろん趣味や好みの違いはあるし、自分にとって難しい本を無理して読む必要もないが、自分がその作品の素晴らしさに気づいていないだけだとしたら少し悔しい。またストーリーばかりを追いかけて、豊かな表現に気付かないまま作品を読んだ気になっていることもあるだろう。

字を追うだけの読書からもう一歩先へと進みたい。

瀬戸賢一「日本語のレトリック」は、日本語の表現について知りたいという人にやさしく手引きをしてくれる。

 

まずレトリックとは何か?

本書によればレトリックと言うとき、古代ギリシア時代からの歴史を持つ西洋のレトリックを通常指す。それは「説得術」、より広くは「弁論術」として理解されているが、日本においては、レトリックのもうひとつの面である「表現そのものの魅力」に興味が持たれてきた。ふつうの表現にプラスアルファを加え、より魅力的な表現を生むということだ。しかし、装飾的なものだけでなく、「より適切な表現」もまた求められる。そのためには「文脈をよく考慮して、伝えたい意味が過不足なくあらわされていなくては」ならない。本書では、広い意味でのレトリックを次のように定義している。

 

レトリックとは、あらゆる話題に対して魅力的なことばで人を説得する技術体系である。

 

本書ではレトリックを30項目に分類して、ひとつひとつ解説が加えられている。隠喩、擬人法、倒置法といった馴染みのあるものから、やや難しいものもあるが、例文を挙げて説明されているのでわかりやすい。○○法というレトリックとしての名前は知らずとも、それらの表現には親しんでおり、文章の中には様々なテクニックが隠されていることを知ることができる

 

しかし本書を読んでわかることは、レトリックは文学的な表現というだけにとどまらず、私たちに身近な日常の表現でもあるということだ。レトリックは私たちの周りにあふれており、それに気づくことがまず必要である。そして、レトリックを知り、使いこなせるようになるということは、「より適切な表現」の言葉を使って自分の考えを伝えることができるようになるということだ。それは自分の思考を広げることであり、可能性を広げることである。さらには、伝え方を意識するということは、相手にどのように受け止められているかを意識することでもある。そう考えていくと、レトリックを知ることは、人が生きていく上で非常に重要でどう生きて行くかにも繋がっていくようだ。

 

そしてその例文として、様々な文章が引用されているのだが、これが非常に興味深い。漱石、芥川から向田邦子筒井康隆村上春樹などなど。読んだことのある作品でも指摘されてはじめて、そのレトリックになるほどと感心したところが多かった。また今までに読んだことのない作者の文章にも多く触れることができるのがうれしい。特に面白いと感じたのが、井上ひさし氏である。彼の作品は読んだことがないが、レトリックを駆使した作家であることがわかる。ぜひとも読んでみたいと思う。

 

そういった様々な作家の例文を読んでわかることは、レトリックは過去の多くの先人たちの試行錯誤の結果、進化してきたものであるということだ。音楽や美術など他の芸術と同様に、多くの実験的試みがなされてきた。また時代によって流行があり、やがてすたれ、形を変えながら現代の日本語がある。過去の積み上げられたものの上に今があると考えることもできる。

 

もちろん日本語の表現を広げているのは文学だけではない。テレビやインターネットの中からは常に新しい言葉や表現が生み出される。社会環境の変化も日本語に大きな影響を与えるだろう。そういったことによって日本語が形を変えていくことを日本語の乱れだとされることもあるが、本来日本語のレトリックはさらに進化していくものだと考えるほうが自然だろう。文学について言えば、古典に親しみその表現を味わいつつ、新しい表現に関心を持つことは贅沢な楽しみであるだろう。

 

私はこれまでの読書において、作者の文章の技術的な面をあまり意識することがなかった。本来、名文と呼ばれるものは読者の読解力にかかわらずその良さが読者に響く、そういったものかもしれない。しかし素晴らしいと感じた名文に出会ったとき、そこにどんな技術が用いられているのか、なぜその文章が自分に響くのかを立ち止まって考えてみれば、さらなる理解、発見があるかもしれない。

 

レトリックを知ること。それはより深い読書をすることに繋がり、さらには自分の日常生活、そして人生の可能性をさらに広げるものであるようだ。

  

日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)

日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)

 

 

 

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