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読書百遍

これまでの「読んだ本の内容を覚えていない」という、悲しい読書からの脱却を目指し、「熟読」「再読」「アウトプット」の読書を目指しています。    (穴があくまで本を読む改題)

百田尚樹「雑談力」

百田尚樹 新書

百田尚樹「雑談力」(PHP新書)

 

今は「雑談本」ブームのようで、書店には雑談に関する書籍が多数並んでいる。雑談が苦手な私は特に関心を持ってそれらの本を手にするのだが、その多くはコミュニケーションとしての雑談、つまり人間関係を円滑にするための手段としての雑談を前提に書かれている。

 

ただ百田尚樹氏の著書「雑談力」は明らかにそれらとは一線を画すものである。

永遠の0」、「海賊と呼ばれた男」など次々とヒットを飛ばすベストセラーを作家であるだけでなく、今や平成の方言王として君臨する百田氏であるならば、ただの雑談本で終わるはずもないだろう。雑談力のみならず、彼の創作の裏側を覗くことができる貴重な一冊だ。

 

雑談力 (PHP新書)

雑談力 (PHP新書)

 

 

まず注意したいのは、百田氏のいう「雑談力」というのは、人をひきつけ、楽しませる「面白い話をする」力のことである。当たり障りのない会話で場をもたすのではなく、自分の話で場を盛り上げ、聞く人の心をつかむ。

百田氏はそのような話をする場合に必要なのは構成能力だという。

 

百田氏いわく「起承転結を考えて、尚かつ盛り上げにも留意して、最後のオチも決める」、さらに「これを即興でやるのがトーク」であるならば、それがいかに難しい技術であるかがわかるのだが、本書では百田氏の「話し方のテクニック」「話題の選び方」「話をする際に気を付けること」などがふんだんに紹介されている。

そしてそれは百田氏の小説執筆の手法と同じと考えていいだろう。読書愛好家ならばこれを見逃す手はない。

 

本書から感じるのは百田氏の圧倒的な知的好奇心とサービス精神である。

百田氏の小説の特徴はジャンルが多岐にわたることである。零戦の話である「永遠の0」、ボクシングの話である「ボックス!」、スズメバチがテーマである「風の中のマリア」など、なぜ関連が全くないような作品を次々と生み出せるのか私には疑問だった。その秘密は彼の好奇心と膨大な読書量にあるようだ。本書においてその一端が紹介されているのだが、生物、化学、歴史、数学、スポーツなどなど、古今東西ジャンルを問わず彼の興味は尽きることがなく、その様々な分野の横断的な読書が新しい発想、さらなる好奇心を生み出すのだろう。

 

そして最も重要だと思われるのが、百田氏のサービス精神である。

「一番大切なことは『人を楽しませたい』という気持ち」というように、「人を楽しませたい」「人に喜んでもらいたい」という気持ちが面白い話をすることの動機づけになり、そのためにはどうすればよいのかという工夫につながるのである。もっとも百田氏の場合は、サービス精神が強すぎるせいで失言や暴言が飛び出したびたび炎上。そこまで真似する必要はないだろう。

 

もう一つ興味深いのが、「相手ではなく、自分が関心を持つ話題を話せ」という点である。

しかし一般的には、むしろ「相手が興味を持ちそうな話をするべきだ」という考え方のほうが主流だと思われる。ただ本書を読んでいても感じるのだが、百田氏の文章からはエネルギーがあふれている。つまりそれは彼が本当に自分で興味を持っていること、面白いと思っていることしか語っていないからではないだろうか。その熱が伝わって読者をひきつける力になっているものと思われる。「自分が関心を持つ話題を話せ」というのは一見先ほどの「サービス精神」と矛盾するようだがそうではない。「人を楽しませたい」という気持ちを忘れなければ両立するのだろう。また自分のオリジナリティを出すこともできる。そもそも自分で興味のない話を他人に面白く伝えようというのは無理がある。

 

読書によって得た知識や自分が体験して面白かったことを、自分の中に閉じ込めたままにしておくのはもったいない。それを雑談という形でアウトプットすることは、その理解を深め、さらなる好奇心を喚起することになるだろう。さらにコミュニケーションの手段として有効ならば行動に移さないという手はない。

 

まずは読書、あるいは自らが行動しその経験を蓄える。これらはインプットだ。自分の興味の枠を広げ、また深く掘り下げる。そして「人を楽しませたい」というサービス精神をもって面白い話としてアウトプットする。これは人からどう見られているかを考えることであり、自分を客観視することでもある。これを繰り返すことによって相乗効果を生み、より豊かな人生を送ることができるのだろう。

 

「雑談力」、それは自らが楽しみ活力を生むだけでなく、周りを巻き込み幸せにするパワフルな力である。

 

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百田尚樹「永遠の0」

百田尚樹 小説

百田尚樹永遠の0」(講談社文庫)

   

今年は太平洋戦争開戦から75年である。

戦争について知ること、その大切さは自覚しているつもりだが、これまでの私はそこから逃げてきたように思う。私の両親は80代で戦争を記憶している最後の世代だ。私が幼少の頃、父は戦争の話を私にしたが、私はそういった話を聞くのが嫌だった。当時は戦争の話というものが、何か気味の悪いもの、格好の悪いものと感じていた。その後、父が戦争について語ることはなくなったが、私の中にどこか後ろめたい気持ちがずっと残っていた。そして歳を重ねるにつれ、戦争について学ぶことこそ、自分に最も必要なのではないかという思いが大きくなってきた。

そういった私にとって、また戦争を知らないすべての人にとって、百田尚樹永遠の0」は戦争について知ること、考えることの大きな手掛かりとなる小説だ。

 

永遠の0 (講談社文庫)

永遠の0 (講談社文庫)

 

 

主人公は26歳の健太郎だ。祖父は宮部久蔵。零戦パイロットとして戦争を戦い、終戦間近に特攻で亡くなった。宮部は凄腕を持ったパイロットであったが、周りの兵士たちからは臆病者と呼ばれた。「生きて家族の元に帰ること」を願った彼だが、なぜ自ら特攻で命を落としたのだろうか。主人公健太郎が姉と共に祖父の生涯を調べ、彼を知る元兵士たちに話を聞くという形で小説が進んでいく。率直な疑問を元兵士たちにぶつける場面もあり、戦争を知らない私たちが当時を知るにはうってつけである。

 

この作品でまず思い知らされるのは、戦時中いかに兵士たちの命が軽んじられたのかということだ。元兵士たちの話では当時の大本営や軍令部の作戦が常に場当たり的なもので、特攻はその最たるものであったと語られる。無謀な作戦が繰り返されるなか、上層部や高級士官のミスは不問にされ、一般兵士たちの命はあたかも将棋の駒のように粗末に扱われた。また、兵士たちもまさしく命懸けで、死を覚悟して兵役についていた。今では生命の尊さについて当たり前のように語られるが、当時は生命というものが今よりも軽いものとして扱われていたのだ。

 

そんな状況の中、健太郎の祖父、宮部久蔵は臆病者と呼ばれ、「命が惜しい」、「生きて家族のもとに帰りたい」と願った。彼はおそらくフィクションとしてつくり出された人物であろう。当時の軍人は命が惜しいなどと口にすることは許されなかった。しかし誰もが命は惜しく、生きて家族や愛する人の元へ帰りたかっただろうというのは当然のことだろう。その当然のことすら、かつては言葉にできなかったのだ。

 

作中登場する高山という新聞記者の話は特に興味深かった。彼は特攻隊と現代のテロリストには共通点があり、特攻隊に志願した人々は狂信的な愛国主義者であったと語る。彼らの遺書や残された手紙からは宗教的な殉教精神や一種のヒロイズムが読み取れるという。ともすれば、私もそのような意見を聞いて受け入れてしまいそうだが、それを聞いた元特攻隊員は激怒したのだ。遺書は特攻隊員の本心ではないという。当時は手紙にも検閲があり、軍部への批判や弱々しいことを書くことはできなかった。さらに残されることになる肉親や愛する者にそのような思いをさらすことは、彼らをさらに苦しめることになるからだ。そういった背景を無視して、彼らが死を怖れなかったというのはあまりにも安直だというのだ。

 

私はここに今私たちが考えるべきポイントがあるのではないのかと思う。戦争を知ること、それには事実を知らなければならない。しかしそれだけでは足りない。歴史の中の行間を読むことが必要なのだろう。

戦争について現代の視点からだけで語るならば、あまりに精度を欠いたものになりかねない。平和な暮らしを享受している現代の日本人から当時を理解するのはたやすいことではなく、誤った認識や解釈では日本の将来を間違った方向に導くのではないかという、作者百田尚樹氏の問題の提起のように思えてならない。そういった現代の流れは、現実を見つめることなく無謀な作戦を繰り返した、かつての大本営や軍令部を連想させるものである。

 

小説「永遠の0」ではクライマックスで宮部久蔵について意外な事実が明かされ、私の心は揺さぶられるように震えた。それは人間が持つ愛だ。それはとてつもなく遠大で、またごく身近にあるものだ。誰にでもそれぞれの人生があり、将来があり、夢がある。家族があり、愛する人がいる。そしてアメリカやアジアの多くの国々でも多くの犠牲が払われたことも忘れてはならない。彼らにも人生があり、守るべきものがあったのだ。

 

確かに平和や愛を唱えるだけでは戦争はなくならないかもしれない。しかし、かつて日本のために命を懸けて戦った人たちがいたこと、また祖国のために戦った外国の人々、あるいは今も世界の各地で戦争をしている国々の人々について、思いを馳せ自分のこととして考えてみることは決して無駄ではないだろう。

 

戦争を学ぶことは難しい。日本からの視点だけでは語ることは出来ず、不安定な国際情勢は未来を一層不透明にさせている。大局的な観点から考えることが必要な一方、戦争が人々から何を奪い去るのかは忘れてはならない。

どんな惨劇も時間と共に薄れ、やがて忘れ去られていくものだろう。戦争を体験した方々もいつかいなくなる時は来る。しかし彼らの犠牲の上に今の私たちの今の平和な暮らしがある。それを享受している以上、私たちはそれを知る方々から次の世代へとつないでいく義務があるだろう。

 

永遠の0」は戦争を知るための一歩である。その先に自ら学ばなければならないことは多い。私が幼いころ嫌だった、父の戦争の話。次に父に会うときは聞いてみようと思う。

 

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瀬戸賢一「日本語のレトリック」ー文章表現の技法

瀬戸賢一

瀬戸賢一「日本語のレトリック」ー文章表現の技法(岩波ジュニア文庫)

 

名作と呼ばれる文学作品を読んでも、その良さがわからないということはよくある。

どこがおもしろいのか?なぜ評価されているのか?

もちろん趣味や好みの違いはあるし、自分にとって難しい本を無理して読む必要もないが、自分がその作品の素晴らしさに気づいていないだけだとしたら少し悔しい。またストーリーばかりを追いかけて、豊かな表現に気付かないまま作品を読んだ気になっていることもあるだろう。

字を追うだけの読書からもう一歩先へと進みたい。

瀬戸賢一「日本語のレトリック」は、日本語の表現について知りたいという人にやさしく手引きをしてくれる。

 

まずレトリックとは何か?

本書によればレトリックと言うとき、古代ギリシア時代からの歴史を持つ西洋のレトリックを通常指す。それは「説得術」、より広くは「弁論術」として理解されているが、日本においては、レトリックのもうひとつの面である「表現そのものの魅力」に興味が持たれてきた。ふつうの表現にプラスアルファを加え、より魅力的な表現を生むということだ。しかし、装飾的なものだけでなく、「より適切な表現」もまた求められる。そのためには「文脈をよく考慮して、伝えたい意味が過不足なくあらわされていなくては」ならない。本書では、広い意味でのレトリックを次のように定義している。

 

レトリックとは、あらゆる話題に対して魅力的なことばで人を説得する技術体系である。

 

本書ではレトリックを30項目に分類して、ひとつひとつ解説が加えられている。隠喩、擬人法、倒置法といった馴染みのあるものから、やや難しいものもあるが、例文を挙げて説明されているのでわかりやすい。○○法というレトリックとしての名前は知らずとも、それらの表現には親しんでおり、文章の中には様々なテクニックが隠されていることを知ることができる

 

しかし本書を読んでわかることは、レトリックは文学的な表現というだけにとどまらず、私たちに身近な日常の表現でもあるということだ。レトリックは私たちの周りにあふれており、それに気づくことがまず必要である。そして、レトリックを知り、使いこなせるようになるということは、「より適切な表現」の言葉を使って自分の考えを伝えることができるようになるということだ。それは自分の思考を広げることであり、可能性を広げることである。さらには、伝え方を意識するということは、相手にどのように受け止められているかを意識することでもある。そう考えていくと、レトリックを知ることは、人が生きていく上で非常に重要でどう生きて行くかにも繋がっていくようだ。

 

そしてその例文として、様々な文章が引用されているのだが、これが非常に興味深い。漱石、芥川から向田邦子筒井康隆村上春樹などなど。読んだことのある作品でも指摘されてはじめて、そのレトリックになるほどと感心したところが多かった。また今までに読んだことのない作者の文章にも多く触れることができるのがうれしい。特に面白いと感じたのが、井上ひさし氏である。彼の作品は読んだことがないが、レトリックを駆使した作家であることがわかる。ぜひとも読んでみたいと思う。

 

そういった様々な作家の例文を読んでわかることは、レトリックは過去の多くの先人たちの試行錯誤の結果、進化してきたものであるということだ。音楽や美術など他の芸術と同様に、多くの実験的試みがなされてきた。また時代によって流行があり、やがてすたれ、形を変えながら現代の日本語がある。過去の積み上げられたものの上に今があると考えることもできる。

 

もちろん日本語の表現を広げているのは文学だけではない。テレビやインターネットの中からは常に新しい言葉や表現が生み出される。社会環境の変化も日本語に大きな影響を与えるだろう。そういったことによって日本語が形を変えていくことを日本語の乱れだとされることもあるが、本来日本語のレトリックはさらに進化していくものだと考えるほうが自然だろう。文学について言えば、古典に親しみその表現を味わいつつ、新しい表現に関心を持つことは贅沢な楽しみであるだろう。

 

私はこれまでの読書において、作者の文章の技術的な面をあまり意識することがなかった。本来、名文と呼ばれるものは読者の読解力にかかわらずその良さが読者に響く、そういったものかもしれない。しかし素晴らしいと感じた名文に出会ったとき、そこにどんな技術が用いられているのか、なぜその文章が自分に響くのかを立ち止まって考えてみれば、さらなる理解、発見があるかもしれない。

 

レトリックを知ること。それはより深い読書をすることに繋がり、さらには自分の日常生活、そして人生の可能性をさらに広げるものであるようだ。

  

日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)

日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)

 

 

 

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綿矢りさ「ひらいて」

綿矢りさ 小説

綿矢りさ「ひらいて」(新潮文庫

 

綿矢りさ作「ひらいて」を読もうと思ったのは、佐藤優氏が著書の中で紹介していたからである。佐藤優氏が女子高生を主人公とした恋愛小説まで読んでいることには驚かされるが、読み始めてすぐに納得した。後に残る名作といっても言い過ぎではないと思う。

 

主人公の木村愛は高校3年生。異性にもて、同級生や大人たちを見下すようなところがある彼女が恋をするのは、変わった名前を持つクラスメイトの「たとえ」。しかし彼には中学生の時から付き合っている美雪という彼女がいた。愛は二人の間に入り込もうと美雪に近づき、奇妙な三角関係が生まれる。思う通りにいかない若さゆえの苦しみや心の葛藤が描かれる。


作者の綿矢さんの表現力にまず驚かされた。女子高生の目を通して見える世界、恋する気持ち、思い通りにいかない苛立ち、憎しみ苦しみ。主人公である愛の心の動きが鮮やかに描かれ、愛が行動を起こすごとに物語がダイナミックに展開していく。そこで繰り広げられる女子校生が織り成す官能の世界や引用されるサロメや聖書。躍動感と広がりを持ち、凄みさえ感じさせる。そして読者に対して挑発的と思えるほど迫ってくる。

 

この作品は青春小説である。私は若い頃のことを振り返って、「あの頃はよかった」などと思うことはない。それはいい思い出として何も残っていないからであるが、この小説を読み終えて感じたのは、もっと青春時代にしておくべきことがあったのではないかということだ。年齢など関係ないとよく言われるが、やはり若い時にしかできないことはあるのだろうと思う。若い時ほどまだ人として未熟ではある。しかし自分以外の世界を知らないからこそ生み出される想像力を持ち、後先のことを考えないからこそ、行動力を得ることができる。ただ若さならではの爆発的なエネルギーというものはあるのだろうが、それだけに失敗したときの傷は大きく深くなる。しかしその苦しみや痛みは人間としての成長につながるのだろう。私はそういった人間としての大切な時期を人ごとのようにやり過ごしてしまったのではなかったのかと考えると、今更ながら後悔のようなものが芽生えてきた。

 

「ひらいて」の主な登場人物たちは愛と美雪とたとえの3人。彼らの共通点は3人ともクラスメイトと馴染んでいないところだ。自己中心的で協調性に欠けるともいえるが、自分自身の世界を持っているともいえる。自分の周りに壁をつくり、その中で自分というものに向き合い、考え悩む。それらを自分の内側に蓄えておくことが、やがて大人になって活きてくる。昆虫がさなぎになるように、人間にもそのような時間が必要なのではないか。その時間をどのように過ごし、何を蓄えておくかによって、その後の人生に大きく影響するのは間違いないだろう。


はたして私の青春時代はどうだったであろう。その頃の私の関心は外へ外へと向かっていたような気がする。自分と向き合うことなしに、他人を気にしてばかりで、何処か今とは違うところへ行けば何者かになれるような勘違いをしていたように思う。それは人間としての「さなぎ」の時期をとばしてしまって大人になってしまったのではないかと今さらながら思う。

 

この小説では、主人公愛が想いを込めて鶴を折る。小説のタイトルは「ひらいて」である。鶴に込めた祈りをひらく。自分の内側に閉じ込めていたものを世界に開放することによって、世界と折り合いをつけていく。それが大人になるということかもしれない。しかし重要なのは自分の内側に何が詰まっているかだろう。おそらく私の折った鶴の中身は空っぽかもしれない。だが、たとえそうだとしても世界と繋がっていくためには自分を「ひらいて」いく勇気が必要なのかもしれない。

 

ひらいて (新潮文庫)

ひらいて (新潮文庫)

 

 

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中村文則「掏摸」

中村文則 小説

中村文則「掏摸」(河出文庫

 

子供の頃にテレビで「黄金の指」という映画を観た。スリグループによる鮮やかな犯罪の手口とその内幕を描いた映画だった。おとりの人物がカモフラージュし、主人公が巧みに財布を抜き取ると、すかさず運び役に手渡す。万が一気付かれても、証拠が残らないようにするためだ。スリは数人でチームを組んで実行され、流れるような見事なチームワークを見せる。まるで自分が犯罪に関わっているかのようなスリルと興奮を味わえた作品で、後にもう一度観たくなりビデオやDVDをあちこち探したが、残念ながら見つからなかった。どうやらDVD化されていないようだ。

 

しかし中村文則の小説「掏摸」はそのときの興奮を私によみがえらせた。

スリを実行するときの描写はスリリングだ。防犯カメラの位置を把握する。周りの人間の視界を防ぐ。指先に集中し、呼吸を止め実行する。読者も主人公と同様、息をのんでしまう。その技術には犯罪でありながら、美を感じてしまう。

 

この小説の主人公はスリ師だ。彼は東京でスリをしていたが、あるとき闇社会に生きる木崎という男の強盗計画を手伝い、報酬として大金を受け取るが、東京から離れるように忠告される。一度は東京を離れるが、やがて戻り木崎と再会すると、不可能だと思われる三つの仕事を言い渡される。それは失敗すれば彼は殺され、逃げれば知人の女とその子供を殺すという過酷なものだ。彼の人生を支配しようとする木崎に抗いながらも、三つの仕事を実行しようとする主人公、そして母親に万引きをさせられる子供との交流が描かれる。

 

闇社会の男、木崎は「他人の人生を支配すること」を楽しむという狂気を感じさせる男だ。主人公は木崎に支配され、生殺与奪の権を握られてしまう。強調されるのは人間の「運命」。犯罪にも格差があり、闇社会の確固たるヒエラルキーが存在する。主人公ら身寄りのない人間は、殺されても身元が判明しづらく、いいように使われる。

 

孤独であるがゆえ殺され、誰かと繋がろうとすれば存在価値がなくなり殺される。これこそ逃れられない運命だ。しかし主人公は母親に万引きをさせられる子供と関わろうとする。子供もまた過酷な境遇で生きることを運命づけられている。子供をそこから救い出すことが主人公の自分「自分の運命」への抵抗だろう。運命に縛られた世界から逃れるには、誰かと繋がることで可能性を見出せる。もし誰とも繋がれないもっと過酷な状況ならば・・・。

 

小説の中に現れるのは「塔」だ。主人公が小さい頃遠くに見えていた「塔」。やがて成長し姿を消すが、再び現れる。「塔」とは神だろうか?「塔」は「人間の運命」よりさらに高い位置から見下ろしているようだ。ともかく主人公は「塔」に見られていた。そのような自分の存在が認められる「何か」があれば本当の意味での孤独ではない。不確かなものではあるがわずかな可能性は残される。

 

描かれるのは悪に支配された世界。しかしそれが現実の世界だとも言えるだろう。果たして世界に善は存在し得るのか?木崎は「お前がもし悪に染まりたいなら、絶対に善を忘れないことだ。」というが、逆のことも言えるだろう。善を知るには、悪を忘れてはならない。人間を知るためには悪を知らなければならない。木崎は悪を体現した男だ。それが本来の人間の姿だろうか。私には理解しがたいところがあるが、おそらく私が人間というものを表層しか理解していないのかもしれない。中村文則の小説は重い。重量級だ。読者に世界を理解しようとすること、この世界で生きていくことを強いてくる。

小説を読み、自分の中にあるものを読まなければならない。

 

ところで現実にこのようなスリ師は存在するのだろうか?小説や映画の中での話だろうと考えている人も、すでにスられており、気づいていないだけかもしれない。財布の中身だけを抜き取る「中抜き」という技もあるらしい。

 

掏摸 (河出文庫)

掏摸 (河出文庫)

 

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はじめに

はじめに

 ~ABOUT ME~

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今さらながら、自己紹介と意気込みを書きたいと思います。

40代男性、

家族は妻と娘二人です。

 

子供のころから本を読むことは好きでしたが、勉強嫌いで国語の教科書に載っていたで覚えているのは「大造じいさんとガン」のみです。「勉強したら負け」と信じていた愚かな少年時代を経て気ままに生きていましたが、20代後半に突然「このままずっとアホでいいのか?」という疑問が立ち上がり、20代後半からは読書に明け暮れました。読めば読むほど知らないことは増えるばかり。読んでも読んでも追いつかない。読書の動機が劣等感から生まれているために、いつしか「本を読むこと」が目的になっていました。その結果、「本を読んだはいいが、内容を全く覚えていない」ということが起こります。これは悲しい。誰かに「この本面白かったよ」と伝えたくても、「どんな内容だった?」と聞かれたときに答えられないのです。せめて大まかなあらすじくらいは言えなければ、その本を読んだとは言えません。そんな悲しい読書からの脱却が必要です。私も40代にさしかかり、人生は有限だと感じるようになりました。読書の時間をつくることも難しい毎日です。そんなわずかな時間だからこそ大切にしたいと思います。大量の書籍を読むよりも、一冊の本を繰り返し読み、新しい発見をする。そして本と作者に対してリスペクトの気持ちを持って読書することが大切だと考えます。私が今この世界でかろうじてバランスを保っていられるのは読書のおかげだと感謝しているからです。とは言っても書店に行っては新しい本を買い込んで、机は本が山積みになっていますが。

 

読書ブログをはじめて発見したことは、考えれれば考えるほど、何かしら新しい発想が生まれるということです。他の人からすれば大したアイデアではないかもしれませんが、これまで自分の中になかったものが、考え続けることによって、あるいは時間をおくことによって立ち上がるというのは、とても面白いことです。逆に言えば、考えることをやめてしまうということは、湧き上がってくるかもしれないそのアイデアを切り捨てているともいえます。そう考えると非常にもったいないことで、読書を楽しむためには繰り返し読すことが欠かせないと、近頃は実感しています。

 

これまで文章など、ろくに書いたことがなく、とても人様に読んでいただけるようなものでありませんが、100冊の本を読んで感想を書けば、少しは文章も上達するのではと考えています。100冊を超えたとき、はじめの頃に書いた記事を自分で読んで、「恥ずかしくて削除したい」と思えれば、少しは上達しているかもしれません。「なかなかうまく書けているな」などと思うのならば、それは成長していないということでしょう。とにかく続けることに意味がありそうです。

 

趣味はマラソンです。読書とマラソンの両立は難しい。本を読みながら走れれば解決するのですが、いまだその域には達していません。

マラソンをはじめた動機はもちろんこの本です。

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

 本を読むこと、走ることが私の生命の源です。

中村文則「何もかも憂鬱な夜に」(再読)

中村文則 白取春彦

中村文則「何もかも憂鬱な夜に」(再読)

小説を宗教の世界観で読む

 

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

 

 

中村文則「何もかも憂鬱な夜に」は、重大犯罪や死刑制度の是非など、生と死にまつわる重いテーマを扱った作品である。刑務官として収容者と向き合う人たちの姿や犯罪者の心理など、人間の内の苦悩や混沌が見事に描かれるが、冒頭の主人公の古い記憶が何を意味するのか最後まで明らかにされないことなど、わかりにくさも伴う。それと同時に、広く解釈できる余地があり、深く考えることのできる小説だ。私なりに想像を巡らせて読み、感想を書いた。

しかし後日、偶然読んだ仏教の入門書に「何もかも憂鬱な夜に」の理解のための大きなヒントがあった。

 

仏教「超」入門』(白取春彦)は、仏教を知らない人にも理解できるように書かれた、まさに「超」入門書である。

 

仏教「超」入門 (PHP文庫)

仏教「超」入門 (PHP文庫)

 

 

著者の白取春彦氏は、仏教をひと言でいうならば、「縁起」であると断言する。

「縁起」とは、関係性のことであり、「この世のあらゆるものが、関係性においてのみその存在が確かめられている」としている。

この世の中のいっさいがあなたという存在を支えている。同時にまた、あなた自身が他の人や物の存在を支えているのである(『仏教「超」入門』)

 

私はここで、小説「何もかも憂鬱な夜に」の施設長の言葉を思い出した。

施設長は生物の起源であるアメーバと主人公の命は一本の線でつながっていると言い、こう続ける。

「これは、凄まじい奇跡だ。アメーバとお前を繋ぐ何億年の線、その間には、無数の生き物と人間がいる。どこかでその線が途切れていたら、何かでその連続が切れていたら、今のお前はいない。いいか、よく聞け」

 そういうと、小さく息を吸った。

「現在というのは、どんな過去にも勝る。そのアメーバとお前を繋ぐ無数の生き物の連続は、その何億年の線という、途方もない奇跡の連続は、いいか?全て、お前だけのためだけにあった、と考えていい」(「何もかも憂鬱な夜に」) 

これは、まさしく仏教における「縁起」である。自分と周囲との関係性の中でこそ自己は存在するという「縁起」においては、善悪すらもその関係性のなかに含まれる。人間の存在への、これ以上の肯定はない。そしてこの小説を仏教の世界観から読み直すと、新しい理解ができる。

 

この小説の舞台である刑務所や拘置所、あるいは養護施設にたずさわる人たちは、罪を犯した人や極めて困難な状況に置かれた人たちと常に向きあっている。そのような人を導くよりどころとするのはおそらく宗教であるのだろう。この小説がそういった現場の現実を描いたものであるならば、宗教の視点が持ち込まれるのは自然ともいえる。

しかし小説全体を通して、仏教の考え方が示されていると私は感じる。テーマともいえる生と死、生きることの意味、自殺、死刑制度、人間の苦悩、さらには小説の節目に出てくる施設長の言葉は実に仏教的で、むしろ仏教の世界観を表現するためにこの小説が書かれたと解釈することもできる。

この場合、この小説のテーマについて読者に深く考えさせることを重視した、いわばテキストのようなものだと言える。そう考えたほうがこの作品全体をすっきり理解できるのだ。小説の難解な部分も、読者の自由な解釈の余地を残すためにつくられた意図的なものであろう。また作者の問題提起でもあるだろう。

現代にたびたび起こる重大犯罪に対して我々はどう考えるべきなのか。事件の背景や犯人の動機、生まれ育った環境、更生、また社会はどう受け止めるべきであるか、または死刑制度の是非を考えるとき、この小説は有効なテキストになる。

ストーリーを追うばかりでなく、読者自身で考えなければならない読書。そうなると読書の意味合いも変わってくる。作者が書いた作品を受け入れるだけの読書から、こちらから主体的にかかわっていかなければならない。読者がどれだけ考えるかによって、作品の価値が変わる。つまりその小説は作者だけが作り上げたものではなく、読者も一緒に関わって初めて完成するのだ。作者と読者の共同作品ともいえる。

 

もう一つ興味深い点があった。

この小説を読んだときに感じた疑問が、登場人物がこれほどまでに苦しんでいるのかということである。これも「人生とは苦しみである」とする仏教の考えとも一致する。登場人物たちは苦しみの根源がわからないために悶々として、苦しみが増幅される。特に思春期にはこんな苦しみを経験しているのは自分だけで、自分は異常なのではないかと思うものだ。

ここで興味深いのが、仏教では人間の苦しみや欲望を類別していることである。いわゆる「四苦八苦」を知ることは、自分の中に持つ苦しみや煩悩の原因を認識し、客観的に見ることができるという点で非常に有効だ。これらは人間の苦しみを普遍化したもので、人類の叡智であるならばそこから学ばないという手はない。自分が持つ苦しみを自分だけなく、人間ならば誰もが持つものだと知ることで、その苦しみから逃れられやすいのではないだろうか。

そして同じことを、小説を読むことによっても得られると言える。「何もかも憂鬱な夜に」でも優れた芸術作品に触れることで、救いを得られるとしている。他者を知り、自分の世界を広げることだ。人間は悩みの中で自分は異常だと思い込んでしまうことが多々あると思う。そこから、犯罪に走ったり、自殺を考えたりする傾向はあるだろう。そんな時、芸術作品に触れること、宗教や歴史を知ること、本を読み様々な物語を知るなどして自分の枠を広げることが必要だろう。

 

私は「何もかも憂鬱な夜に」を読み終えた直後に、偶然『仏教「超」入門』を読み、初めて小説と仏教の接点に気が付いた。仏教について詳しい人なら「何もかも憂鬱な夜に」の仏教の世界観を一読して読み取れるだろう。

著者の中村文則氏は他の作品「掏摸」のあとがきで、「掏摸」は「旧約聖書」が影響しているとも記している。「何もかも憂鬱な夜に」においては仏教を意識したのだろう。

そもそも人間を語る上において宗教は切り離せないものかもしれないが、宗教とのかかわりが希薄になっている今、その視点で小説を読むことはなおさら重要だろう。ただあまりそこにこだわり過ぎても、自由な読書の妨げになる可能性もあるだろう。私にとっては小説を読むとき、また人生を考えるための新たな視点を持つことができた重要な2冊になると思う。

 

mayaboupan.hatenadiary.jp

  

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